事実というものは存在しない。
存在するのは解釈だけである。
/ ニーチェ
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僕はお店で値切ったりするのが苦手です。
「変な駆け引きなく、最初から最低値を提示しろよ!」
とか思う訳です。
言葉が上手に使えない子供にも、弱気な老婆にも、等しくサービスを提供して欲しい。
対価をもらってサービスをする以上、ということは基本的には客を選んで欲しくない。
一方、キャバクラなんかの「不確定」な感じが好きな人は、幻想というか、疑似恋愛というか、まあ人によっては本当の恋愛になりうるかもという「可能性」に対して対価を支払うと思うんです。わかんないですけど。
この二つをとりあえず
・平等型サービス
・努力型サービス
と分類します。
で、ゲームはどうなんだ?というと、そのほとんどが「努力型サービス」なんですよね。格ゲーもシューティングも、ある一定の技量に到達しないと楽しめない。同じお金を払ってるのに、楽しめる人とそうでない人が居る。
日本でコマンド式RPGがヒットしたのは、どんな下手でも時間さえかければクリア可能という「平等型サービス」に限りなく近づいたからだと思うんですよ。それでも一定の技量や時間に対するコストを支払うハメにはなりますが。
あー、なんだ。うまくまとまらないな。
ゲームってのは「誰でもクリア可能な平等型」と「マニアだけが喜ぶ努力型」以外の答えがあるんじゃないか?というのが今回言いたい事です。別に自由度は高くなくてもいいから、プレイヤーの人間性にフィットするような、異なる体験を与えられるのに誰もが同じように心動かされるような。
たとえば「泣けるツボ」って人それぞれ違うと思うんですよ。
動物モノだったり、おばあちゃんものだったり。
そこでクリエイターが「これは泣けるでしょ?」って押しつける物語じゃなくて、ゲームがプレイヤーの心理を探って「必ず泣けるツボ」を押してくれる(生成してくれる)ような、そんなゲーム。
体験を平等に与えるんじゃなくて、感情を平等に与えるようなゲーム。
そういう「感動の保証」が出来れば、小説や映画なんかの押しつけ型メディアとは違った可能性が出てくるんじゃないですかね。
という事です。
われながら判りづらい文章っすね。
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モップガール
http://www.tv-asahi.co.jp/mopgirl/
なんとなくおもしろそうなドラマ。
「やりなおし系」って流行ってるんですかね。
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そういえばアンダーワールド来ますな。
Born Slippy のピアノが混じってるバージョンが急に欲しまる。
「Born Slippy 2003」に入ってるのかなー。