やばい!前回の回想記から1ヶ月以上も経ってしまいましたね。
ブログ開始当初は純粋に由宇人の応援をしていただいている方にしか
見られていなかったオレのブログ。
アクセスも20~30人くらいだった。
それでも見てくれている人がいるもんだなぁ~と素直に嬉しかった。
大震災があってオレの人生も急展開した。
だからブログの趣旨自体が劇的に変化してしまった。
最初から読んでいただいている方、ごめんなさいね。
そしてこんなへたくそな文章を読んでくれてどうもありがとう。
回想記は思い出しながら書き続けます。
さぁ、続きです。
普通病棟へ移ってから5日後のあれは確か金曜の朝のことでした。
いつもどおり朝の検温、食事、お薬を飲んだりとスケジュールを
こなしていました。その日の看護師さんに午後のPTの予定などを
確認すると彼女は息子の点滴を外しながら事務的に
「ああ、今日は午前中に大体の事は終わらせるわ。
だって午後からあなたたちは家に帰ることになると思うから。」
というようなことを言いました。
「えっ!なんで?それって退院ってこと?月曜じゃなかったの?」
私はたどたどしい英語で聞き返しました。
「ええ、ドクターの許可が出ればおそらくは今日よ。」
彼女は私は責任者じゃないからよくわからないけれどみたい仕草
をしながら部屋を出ていきました。
思いがけない退院話にテンションが上がりました。
実はアメリカの病院も土日は大した処置はせずに基本的に
ドクターもオフです。
本来は月曜の予定の退院でしたが何もしない2日間が経費的に
もったいなかったので何とか金曜日にならないかとお願いしていた
要求が通ったようでした。
「由宇人!今日、アメリカのおうちに帰れるかもよ!だって!」
と私はおどけて息子に伝えると
「えー!?本当?やったー」と半分理解できない様子で喜びました。
それから付き添いの交代の支度をしていた妻にも退院の知らせの
電話を入れて喜びを分かち合いました。
聞くところによると午後から一生飲み続けなければならない
大切なお薬の講義を受講して退院できるとのことでした。
結局、13時からの予定が15時からとなり最後までアメリカ時間に
翻弄されました。
(とにかく時間にはかなりアバウトです。時間に厳しい日本人は
最初は戸惑いますが次期に慣れます。)
上級看護師のリサさんが時にユーモアを交えながら、時にシリアス
に一つ一つのお薬について説明をしてくれました。
当初息子が飲んでいたお薬は・・・・
プログラフ(別名:タクロリムス)=免疫抑制剤
セルセプト=免疫抑制剤
バクトリム=抗生剤
アシクロビル=抗ウィルス剤
ペルサンチン=血液をサラサラにする薬
マグネシウム=サプリメント
ラシックス=利尿剤
ナイスタチン=口内殺菌剤
ニュロンチン=抗癲癇剤(てんかん)
アスピリン=血圧の薬
マルチビタミン=サプリメント
と、まさに薬だけで満腹になってしまう量でした。
昼だけは5種類なのですが朝と夜はがっちり飲まなければ
なりませんでした。
私と妻は由宇人の一生の習慣となるため、真剣に受講しました。
各種類の分量、飲用する時間帯、吐いてしまった時の対処法、
各薬の副作用、時間が経過するたびに薬を減らしていく方針、
マスク着用の場所、行っていい場所NGな場所、感染症の予防策など
どれもこれもが息子が生きるために大切なアドバイスでした。
いづれ記述しようと思っていますが、
移植当初は幼児ということから錠剤が苦手だったため、ほとんどの
薬を液体で飲んでいました。
そのため量が多くて胃が受け付けずに途中で吐いてしまうことも
多々あり、かなり苦労しました。
ミセスリサからの説明が一通り終わり、いよいよ退院の準備を
進めているとお世話になった看護師さんやドクター、PTさん、
チャイルドライフのヘルパーさんなどが次々と病室を訪れ息子の
退院を祝福しに来てくれました。
「由宇人はまさしくストロング&ラッキーボーイだった。」
「ここまで快復したことは本当に奇跡的。本当にうれしく思う。」
「わたしのかわいこちゃん、いなくなると思うと寂しいけどあなたに
とっては素晴らしいことだから仕方ないわね。」
「お元気でご家族にどうか幸運を。」
人それぞれ餞(はなむけ)の言葉は違ったけれど全てが感動的でした。
優しさ溢れる見送りをいただきながら私たちは病院の入り口を外に
向かってくぐり抜けました。
NYに渡ってから実に53日ぶりの家族そろっての外出でした。
10月も半ばのNYの風は温かく、まるで私達家族を祝福しているように
包んでくれました。
病院からの説明で意外だったのは退院後すぐに地下鉄などの
公共交通機関に乗ってもよいということでした。
普通なら地下鉄やバスは感染症の巣窟なので3ヶ月くらいは
避けてくださいと言われるはずなのですがうちの場合はOKでした。
とは言ってもこの日は大事をとってタクシーで帰ることにしました。
久しぶりの外の世界に息子はいささか興奮気味でした。
あの時タクシーの車窓から見た風景と目を輝かせていた横顔は
今でも鮮明に覚えています。
コロンビア大学病院の168丁目からアパートのある46丁目までは
ハイウェイを使うと約30分以内で到着しました。
アパートに着くと息子は初めてのアメリカでの住まいに興奮したようで
まだまだリハビリが必要なよちよち歩きで部屋中を歩き回り、
喜びを表現していました。
「ここが由宇人のアメリカでのおうちなんだよ。由宇人が元気になるまで
しばらくここでママとパパと由宇人と3人で暮らすんだよ。」
息子は「ふ~んそうなんだぁ。」とさほど疑問も持たない様子でした。
ちょうど夕方時だったのこともあり
「由宇人、退院のお祝いをしよう。何が食べたい?」
と聞くと、息子は
「パパぁ、ボク、みそラーメンが食べたい!」
と無邪気な笑顔で返してきました。
「よしっ!わかった。それじゃパパがみそラーメンを作ってあげるよ。」
私はすぐにアパートから徒歩で20分を切るくらいの場所にある
日本食店「やぐら」へ買い出しへ行きました。
余談ですが私は高校3年生から専門学校の約2年半、某ラーメン店で
アルバイトをしていた経験があり、ラーメンを作ることはガンプラをつくる
ことより簡単でした。
そして息子待望のみそラーメンが完成し、
家族3人でラーメンパーティーの時。
「パパぁ、おいしいっ!」と無心にラーメンをそそる由宇人の姿を私は
一生忘れることはないでしょう。
退院をした夜、約1年ぶりに家族3人で川の字になって眠りました。
それはなんとも言えない、安らかでまるで雲の上で眠るような
心地よさに包まれた深睡でした・・・・・・。
この日から息子は一歩づつ、以前の自分を取り戻すことを、
また、それ以上に強くならなければならない闘いを始めることになるのです。
シュワッチ。

