こどもたちの間で大人気の『鬼滅の刃』。私は原作を読んでいません💦「内容が…」「作画が…」「こどもにとっての影響が…」という理由から読んでいないというわけでは全くなく、HSP的な性質ゆえ小さな頃から闘い系のアニメや漫画などが苦手で、特に血が飛び散る・体が切れるなどのシーンがあるとショックを受けてしまうのです(映像化されたものだと余計にショックが大きく、以前そのようなシーンがあるドラマを観た時は激しい悪夢に魘されました)。そのため、学童保育に通うこどもたちから教えてもらいキャラクターは何となくわかりましたが、具体的な内容を全く知らない状態でこどもたちと遊んでいます。
面白いのが、(もちろん文脈や状況に拠りますが)「原作を知らない=遊びが成り立たない」ではないということ。
○「鬼滅の刃ごっこ」の始まり
『鬼滅の刃』が大好きな1年生のカレン(仮名)が、段ボールで作った剣を使い、今日も私を「鬼滅の刃ごっこ」(闘いごっこ)に誘ってくれました。カレンは「胡蝶しのぶ」というキャラクターに成り切り、「蟲の呼吸!蝶ノ舞 戯れ!」と言いながら、鬼役の私を剣で突いてきます。一連の遊びが終わった後でカレンが原作を読んでいない私に「胡蝶しのぶは鬼を倒す力がないから、毒で鬼を攻撃するんだよ!」と教えてくれたのですが、当初その設定を知らない私は「ぐぇぇぇ〜、チョンチョンとかじゃなくて、一思いにバッサリ斬ってくれよぉぉ〜‼️」とツッコミを入れながら倒れる演技をしてみせます。
○遊びの膨らみ〜いろいろな「しのぶ」〜
やがて1年生のタツキとミユ(いずれも仮名)も参戦。もちろんカレンの味方です。3対1の状況に、私は謎のハイテンション?で応戦。「胡蝶しのぶ」を文字って、
・「全校生徒の皆さん、おはようございます!真っ直ぐこっちを見る姿勢が素敵ですね!どうも、〝校長〟しのぶです!」
・「えっへん!どうも、〝社長〟しのぶです!」
・「なんだか今日は調子が良い!どうも、〝絶好調〟しのぶです!」
・「ホワチャ〜!どうも、〝アチョー〟しのぶです!」
など、様々な「しのぶ」になって激しい?バトルを繰り広げました(笑)
カレンをはじめ、こどもたちは「も〜っ!」と呆れながらも大笑い。このカオスな「鬼滅の刃?ごっこ」は、その後の関わりの中でも繰り返し展開しています。
○遊びの〝動き〟の背景にあった思い
アニメや漫画などをテーマにした遊びは、こどもたちと関わる中で度々起こり得ること。そのような状況で、私が敢えて原作の内容から脱線した関わりをする(今回で言うと、私が様々な「しのぶ」になってみせたこと)のは、私の自然な関わり方のスタイル(全然違う要素を投入して、遊びに波紋を生み出す)でもあり、意図的なものでもあります。「意図的」というのは、原作がある遊びで往々にして生じる「原作を知っている子/知らない子」という壁を崩したいということを常に意識しているため。今回の事例では、漫画を読破しているカレン、周りの子達のブームの中でキャラクターや歌くらいは『鬼滅の刃』を知っているというタツキ、その中間程度のハマり具合のミユという3人が遊びの場面の中にいました。仮に私が原作を読んでいたとして、カレンと私しかわからない原作に忠実な遊びの世界を展開してしまったら、周りにいるこどもたちは遊びに参画する余地がなくなってしまうのではないでしょうか。また、知っている子/知らない子が混在する状況で遊びが原作に忠実になり過ぎることで、「そんな技はない!」「刀の形が違う!」などという厳しい指摘が飛び交うことになります(実際、他の遊びの場面でこのような展開を経験してきました)。
「だからアニメや漫画はいけない!」「自然物や素材で遊ぶのが良い!」と結論づけるのはあまりに早急。そうではなく、「原作がゴール」という枠を崩し、それを〝きっかけ〟〝原動力〟として位置付け、いかに「今いるメンバーで、この環境、この文脈で、未知で特異的な遊びを即興的に生み出すことができるか」を楽しむマインドを持つことが個人的には大切なのではないかと思っています。
このことは、数年前に書いたこちらのブログにも重なります。
https://ameblo.jp/yokomeyagi19/entry-12644896185.html このエピソードは私が学生の頃のものですが、当時はサッカーアニメ「イナズマイレブン」が大流行していました。「イナズマイレブン」に関してはリアルタイムで観ていたのですが、こちらは「知っている/知らない」ではなく、「得意/不得意」が伴う遊びについて書いたものです。どんなにアニメの内容を知っていたとしても、私がサッカーの技を華麗に再現するのは不可能(ただでさえサッカーが苦手なのに、バク宙や数段ジャンプ、高速ダッシュはおろか、炎や氷を生み出したり、化身を召喚したりするなんてできません!)。けれど、だからといって関わりが成り立たないわけでは決してないよ、「得意/不得意」「できる/できない」よりも、もっと大切なものがあるよ、ということについて綴りました。
○まとめ〜「間主観的感性」「Unknowability」〜
まとめると、遊びが展開していく上で重要なことは、原作を「知っている/知らない」(あるいは「得意/不得意」「できる/できない」)でもなく、また、アニメや漫画の是非を問うような二項対立的な議論をすることでもなく(もちろんそれも重要ですが、あくまで「遊びを展開していく」という点にフォーカスした場合)、
それをどう「いま、ここ」の遊びの文脈において豊かに膨らませる〝きっかけ〟〝原動力〟にしていくのか、どう文脈や特異性を意識しながら未知の創造主体としてこどもたちと共に在り続けるか、ということではないか、ということ。
精神科医としてご活躍をされた丸田俊彦先生は『間主観的感性ー現代精神分析の最先端ー』(2002年、岩崎学術出版)の中で、セラピーにおける「間主観的アプローチ」について「コンテクスト」と「ファリビリズムfallibilism(可謬性)」を常に考慮に入れながら治療を進めることであると述べています。そして、このように付け足します。
「何だそんなことか」と思われる読者があるかもしれない。そんなことなのである。しかし、その「そんなこと」は、「ボーリングというのは10本のピンを一度で倒すというだけのこと」、「ゴルフというのはパーでボールをホールに入れるだけのこと」と言うのに似ている。ボーリングでストライクをたまたま出すことは、今日初めてボーリングをする人にもてきるし、ゴルフでパーを出すことは日曜ゴルファーでもしばしば達成可能である。しかしそれを繰り返し、安定して行うことは素人には難しい。
詳しい紹介は割愛しますが、(人と人とが出会う場面で「間主観性」が生まれるという捉え方があるため当然ではありますが)間主観的アプローチを心掛ける姿勢はセラピーの場面に限らず、人と人とが出会う場面全般、そして遊びが展開していく上で重要になると思います。「正解」などなく、したがってマニュアルやテクニックなどもない。そのような不確かさに満ちた中で、いかに共に在り続けるかー。それは「Unknowability」とも重なる気がします。
https://ameblo.jp/yokomeyagi19/entry-12644904880.html もちろん、今回の事例と同じことをすれば遊びが豊かに展開するということでは全くありません。ゆっくり『鬼滅の刃』の話をしている場面において、突然「アチョーしのぶ」をやったら途端に関わりは大きく変容することでしょう(取り返しがつかない破綻に陥る場合もあれば、面白い方向に展開する場合もあるし、破綻した後の関係性の修復の中でより良い状況になる可能性も含むため一概に「良い/悪い」「べき論」では捉えることはできませんが)。また、私自身も「いつも同じ」で在るはずがなく、「コンテクスト」と「ファリビリズム」の中でマッチとズレを重ねながら、こどもたちと共に〝進んでいく〟プロセスの中に居続けていることは強調したいです。
繰り返しになりますが、「知っている/知らない」(「得意/不得意」)は遊びが展開しない原因には(おそらく)なりません。それは誰もが遊びや関わり合いの主体になることができる可能性でもあり、同時に誰もが応答責任性から逃れることはできないということにも繋がります。未知や不確かさの中で協働・共創造的に遊びを生み出していくー。そんなスリリングでわくわくする遊びの瞬間を楽しむことができる人、楽しむことができる場、楽しむことができるコミュニティが拡がっていけば良いなぁ、と思います。