○宿題って、こんなに必要なの?
学童保育現場にいると、果たして宿題が必要なのか、少なくともこんな量を出す必要はあるのかとモヤモヤすることが多い。プリントや音読に加え、自主学習ノートや体力アップ、さらには詩の暗唱(担任だけでなく校長先生の前でも読むらしい)もある。「なぜやらなければいけないの?」という疑問を許さず、こどもたち自身の内側から湧き起こる好奇心や探究心が入り込む余地がない「こなす」だけの宿題。「子どもの権利条約第31条はどうなってるの…」と感じつつ、終わらせないとご家庭にしわ寄せが行ってしまうため、すっかり疲弊し切ったこどもたちをなんとか励ましながら時間内に終わらせるようにしている。


○目を輝かせていた1年生の瞳が曇る連休明け・夏休み明け
年度始めには「宿題が出たよ✨」と目を輝かせていた1年生たちが、溜め息混じりの疲れ切った表情で「宿題めんどくさい…」と訴える時期が今年もやってきた。両面印刷されたプリントのオモテには30問くらいの計算。ウラにはひたすら「ア」「ア」「ア」…などと同じ文字を書かせ、現代のこどもたちの生活からは掛け離れた物の絵を見てひらがな・カタカナの名称を書かせる問題が出題されている。バナナとかメロンとかなら良いけれど、黒電話や羽子板、ヤッケ、冬瓜、蓮、門松などは難しく、「これ、なに?」「わからない!」という声が多数あがる。年季の入ったイラストからは、こどもたちの生活や必然性に応じた教材づくりをする余裕がない学校現場の困難さが窺える。


○だいこん?にんじん?
そんな宿題事情と日本のこどもたちの精神的な幸福度が低いという調査結果とを照らし合わせて考えながらなんとなく写真フォルダを整理していたら、少し前に根菜類の絵と4つのマスが書かれた問題を前に悩んでいた1年生・リョウくん(仮名)が生み出した素晴らしい回答の写真が出てきた。
ちなみに、同じ小学校の現2年生も去年全く同じプリントが宿題として出され、全く同じところで悩んでいたため見覚えがある。その時は絵をオレンジ色に塗って「にんじん」と書いていたっけ。
↑葉の形で判断すればわかるかも知れないけれど、白黒かつ「だいこん」も「にんじん」も4文字かつノーヒントのため、1年生は苦戦していた。


○リョウくんが、リョウくんなりの答えを導き出すまで
リョウくんは問題を前にし、最初は「これ、だいこんなの?にんじんなの?わかんない!」と怒っていた。そして、「こんなのやってられるか!」と言わんばかりに線でマスを全て消した。
しかし、これではせっかくここまで頑張ってきたのにもったいないと思い、「確かにこれだけじゃわからないよね💦リョウくんが思ったほう(だいこんか、にんじん)を書いてみたら?それで何か言われたらリョウくんが悪いんじゃなくて、問題が悪いんだよ」と声をかけると、マスを半分に分けて「だいこん」と「にんじん」両方書くというアプローチをした。
しかし、これでは自分なりに納得がいかなかったリョウくん。最終的にニヤリとした表情を浮かべながら「これでいいや!」と言って…
「だいにん」と書いた。「ホントにこれでいいの?書き直しになったら後々めんどくさくない?」と確認したが、自信満々?納得のいく答えが導き出せた?もうこれ以上は面倒だと思った?ような表情で「オレはこれでいいんだ!」という返事が返ってきたため、「オッケー!それなら、これでいこう!」と答えた。


○まとめ
後日「だいにん」が学校でどう評価されたのはわからない(結局「だいこん」でも「にんじん」でもマルになったらしい)。けれど、「ふざけている!」「これはバツです」ではなく、「だいにん」が生まれるまでのプロセスと、そこに込められた彼の思い(問題や宿題への怒り、試行錯誤、ちょっとしたユーモアを交えたリョウくんなりの答えを生み出した時の喜びや自信、「どや!」という思いなど)を感じることで、とても意味のあるものに思えてくる。

「正解」を覚えるー「正解」かどうかを評価する教育から、未知の問いについて探求し自分(たち)の仮説を生み出すーそのプロセスを捉える教育へ…。

宿題をめぐる何気ない日常のエピソードから、そんなことを考えた。