前回のブログで社会構成主義について書きました。
直訳すると「権利」を意味します。
こちらのブログhttps://ameblo.jp/yokomeyagi19/entry-12380740336.htmlにて「diritti」について書いたのですが、まさにこの社会構成主義の考え方を大切にされた権利観であると言えるでしょう。
先日、レッジョ・エミリアにお詳しい方のお話の中で、保育園の名前を決める話し合いの様子が語られました。
夜の時間帯にこどもから年配の方までが集って語り合ったのだそう。意見を言う人は前に立ち、その時は全員がその人の言葉を真剣に聴く。あくまでお話を聴いてのイメージですが、その様子はきっと日本の職員会議のようにトップダウン的なものでは決してなく、例えば「この土地に住んでいたおばあちゃんの名前がいい。この土地でみんなを見守ってくれるから」などのようなそれぞれの意見を大切にする雰囲気に満ちているのではないでしょうか。
結局、その会合では園の名前は決まらなかったそう。もしかしたら敢えて「決めなかった」のだろうとも思います。「決める」というゴールよりも、それぞれの思いを共有し合うことそのものに意味がある。そんな価値観が大切にされているからこそ、レッジョ・エミリアには「100の言葉」が溢れているのかも知れません。
この話し合いの様子についてのお話を聴き「あぁ、これが『diritti』が体現された実践なのだ!」と感じました。もしかしたらレッジョの人々は「実践」というまでもなく、ありふれた日常の光景なのかも知れません。
私が中学生の頃、住んでいた自治体でこどもたちが議員となって議会で意見を自治体の長と話をするという「イベント」「パフォーマンス」がありました(そう、あくまで所詮「イベント」「パフォーマンス」だったのです)。
私は、この地域には公園が少ないため思い切りボール遊びなどができる場が増えたら良いのではないかという提案をしましたが、首長からは要約すると「公園はいくつかあるからそこで遊べ」という返答。ほかの中学生たちの意見も、耳障りの良い言葉で否定され、こどもながらに心底怒りを覚えた記憶があります。
予め意見を書いて首長のもとへ送っていた時点で、今思えばあれは予定調和的なものだったのでしょう。
まさにレッジョとは対照的な対話の形。そこに当時中学生だった私たちが対話に加わる「権利」などなかったのです。
「結果を出す」とか「こどもの意見を聞きました」などの自治体のアピールを超えて、真の意味で多様な世代が対話して未知を創っていくような機会が日常の光景になっていけば良いと思うし、それに向けて日々実践しています。
いろんな立場、それぞれの思いがある。
それに優劣などなく、あるのは違いだけ。
行く先は未知。その未知があることによって、違いは互いを排除し合う邪魔者ではなく、対話を続け、共に未来を創造し合える重要な要素となります。
社会構成主義的な視点からレッジョ・エミリア研修を振り返ると、新たにたくさんの発見があり、わくわくしています✨