「自然とこどもたちの間で遊びが生まれていくおもちゃって、どんな要素があるのだろう…」
遊び方の「マニュアル」を越えて、こどもたちがピクテルで次々と新しい遊び方を発明していく姿を見て、そんなことを考えていました😌✨
おもちゃが果たす役割(いま流行りの「知育玩具」や、よくありがちな「社会性や協調性が身につく」などの浅いレベルの一般論ではなく)を考えていきたいと思い、前に買った、和久洋三氏の『おもちゃから童具へ』(1978年、玉川大学出版部)という本を読みました📖
長年、童具作りとその研究をされてこられた和久氏。
ご自身の保育のご経験、そしてデザイナーとしての視点から語られる「童具」論は、大衆的・鋭利目的・買わせるために「光って、鳴って、動く」ような、やたら刺激的なおもちゃが出回る今日において、とても大切であるように思います。
私が特に「そういうことか!」と学びを得ることができたのは、「抽象と具象」という部分。
【具象童具とは?】
・具象童具とは「人間、動物、家、自動車、汽車、食器などを象りミニチュア化したもの」と定義されており、「模倣の世界へ誘導する触媒作用を果す」といいます。
代表的な具象童具は、おままごとセットでしょうか。こどもたちは、野菜や肉、食器や調理器具を模したものを使い、自分たちが見、知っている家庭像を遊びの世界に投影させます。
【抽象童具とは?】
・一方の抽象童具とは「ボール、フープ(輪)、ケン玉、おはじき、コマ、あやとり、ヨーヨー、積木などの世界である」と和久氏は述べています。
「素材性が高く、工夫すれば遊びが拡大し、技能の発達にともなってさらに価値の増すものが多」く、「フォルムに即物的な意味あいがないから、一度子どもの世界にはいり込むと、時代や民族を越えて生き続ける」という抽象童具。抽象度が高いからこそ、見立ての世界が豊かに膨らんていくという特徴があります。
具象童具は模倣など「認識を深化させ社会的な拡がりを持つ概念や心情を把握する」ことで「社会性」を育み、一方の抽象童具は「知らなかった真理を見つけだし新しい世界を生みだす」ことで「個性」を育む方向へ展開していく様が描かれています。
どちらの童具にも大切な役割があるのですね。
これまでの投稿を見てくださっている方はお気付きかも知れませんが、個人的には、和久氏のいうところの「抽象童具」に分類されるようなもの、そして こどもたちが「知らなかった真理を見つけだし新しい世界を生み出す」プロセスに関心があります。
というのも、6年間デパートのおもちゃ売り場でアルバイトをしている中で、買わせる・捨てさせるためのおもちゃ(戦隊モノやキャラクターモノ、テレビアニメと関連させた商品)…具象的な形態のものがあまりに多いと感じたからです。
※敢えて「童具」とは言いません。なぜなら、それがこどものためのものかというと必ずしもそうではないからです。
それらは、おままごとセットなどのように こどもたちの「生」に基づく模倣というよりも、
メーカーが購買意欲を掻き立てるために作ったCMやアニメで紹介された通りの遊び方、あるいは具象的であるがゆえに遊び方が「マニュアル」化され、周りのオトナが「正しい」と思って教える使い方を模倣するような形のものがほとんど。
こどもたちは楽しそうに遊んでいましたが、新しい遊びがそこから展開していくことはとても難しいように思いました(次の商品を買ってもらうためには、それ1つで多様な遊び方ができてしまっては新商品が売れないから、ということなのでしょう)。
このような状況を目の当たりにして、こどもたちが自分たちで新しい遊び方を生み出すことができるような、抽象童具と呼ばれるようなものに関心を抱いたのは、今振り返ると自然な流れであったように思います。
【抽象童具であるためには?】
ただ、抽象童具には難しさもあります。
それは、そのもの単体では、遊び手の力量に大きく左右されてしまうというところ。
それは、白い紙と鉛筆を渡されて「好きな絵を自由に描いていいよ」と言われた時にスラスラ描き出す子がいる一方で、「自由に」が苦しく固まってしまう子がいることと同じ。特に「マニュアル」や「How to」に慣れてしまっていると、「どうしたら良いの?」と、先に「正解」を求めてしまい遊びが破綻してしまいがちです。
和久氏は「石ころや板きれでは、遊びがどうしても持続していかない」と述べています。
そして、1人のこどもが、例えば石ころ1個、あるいは板きれ1枚のような抽象的なものを単体で使っていた場合、
「ひとつひとつのかたちがピストルになり、乗りものになり、お菓子になり、子どもの想像力を刺激はするが、これらの数量を多くして組み合わせるとか、継続させて発展的に遊びを創りだすとか、あるいは個々の子どものイメージを持ち寄って共有することは生まれず、子どもの遊びはすぐゆきづまってしまう」と続けます。
場合によっては、もしかしたら石ころを見つけたところで、「なんだ、石ころか」と目もくれず、遊びに展開しない場合もあることでしょう。
では、遊びが持続するために大切なことは何でしょうか。和久氏は「考えた末、思いついたことは、数量的な法則性を加味すること」だと述べています。
そして、組み合わせて遊ぶことができるよう、形や大きさ、長さなどを揃えるというような「法則性、数量的な関連性はある意味では制約になるのだが、この制約があって始めてフォルムが秩序をもって無限に発展してゆき、遊びがいつまでも持続する結果を生んでゆく」と続けます。
これらのことをまとめると、抽象童具に
⭐︎物理的な工夫
・それ単体ではなく、色や形など、法則性や数量的な関連性を持っている…完全に遊び手に丸投げするのではなく、制約=自然と試行錯誤してみたくなってしまうような仕掛けを加える
⭐︎環境的・心理的な工夫
・個々のこどもたちのイメージを持ち寄って共有する機会を設ける…1つの遊び方のみならず、複数の遊び方を膨らませることが許されるような環境をつくる
を持たせることによって、こどもたちはこれを使って「遊びがいつまでも持続する」ことができると言えそうです。もちろん「絶対そうなる」ではないし、マニュアル的に「これをさせねば!」に陥ってしまったら、それはもはや遊びではないことは忘れてはいけませんが。
たしかに、これまでこどもたちが夢中になっていた抽象童具というジャンルにカテゴライズできるものは、法則性や数量的な関連性を持っており(ピクテルは全てのカードのサイズが同じで、様々な抽象的な記号が描かれているという共通性がありました)、私自身も意図的に複数のこどもたちが一緒に遊べるような場面を大切にしていました。
今回、和久洋三氏の「童具」論に出会えたことで、私のおもちゃ観がグッと深まったように思います😊