先日、レッジョ・エミリアでの乳幼児教育実践の土台を創り、展開していったローリス・マラグッツィについて学ぶシンポジウムに参加させていただきました。

戦時中、ファシズムの流れに対して抵抗し続けたレッジョ・エミリアという市の風土、

戦後、それまで教会が開いていた幼児学校が、次第にイタリア国が作る標準的なカリキュラムを導入するよう迫られ小・中学校の流れに入れ込まれていったという歴史の流れ、その中で少しずつリニアな学習過程観(こどもが一直線に、画一的に目標へと向かう)への危機感が生まれていったこと、

児童相談所的な場の所長という立場で、児童心理司として働いたマラグッツィ自身の人生や価値観(学校は文化が学ばれる場ではあるが、学習主体としてのこども、生身のこども、人間としての、全体、全存在としてのこどもの姿という価値を直接の顧慮の対象としないという点)…。

生まれながらに権利や無限の可能性(それは誰かが「引き出してあげる」という意味での無限の可能性ではない。既にある生命への尊厳)を持つ存在としてこどもを捉えるような実践が生まれた背景を学ぶことができ、とても充実した時間になりました。


また、めまぐるしい変化にある社会でこれからどう生きるかという岐路に立たされ、
保育や教育の中に「マニュアル」や「◯◯スタンダード」「◯◯式」のようなものが溢れ、
社会の矛盾から様々なこどもたちの生き辛さが噴出しているような日本社会に生きる身として、レッジョ・エミリアの歩みや実践、その根底にある思想や哲学を学び続けることは大きな意味があるのではないかと思いました。


・文化が創造される場に主体として参加することによる精神的な癒し(文化は単に「教授される」ものではない)

・人間は絶えず外部の世界と交渉しながら、その相互作用を通して、自分の内部世界を形づくる

・レッジョ・エミリアでは、日本で言うところの「特別支援」という言葉に対して、「Special Needs」ではなく「Special Rights」と捉えている

・計画があって目標を達成するプログラムではなく、生きている状況(エマージェント・インシデント)との対話によるプロジェッタツィオーネ


などなど…

ぽつぽつと学んだことを書いてしまいましたが、
学生時代に学んでいた「あそび」観…インタラクティブで、共創造的で、「鬼ごっこ」などの名前などがなく即興的・偶発的に起こり、「目標」などそこになく、次の展開がわからないからこそ互いが主体的になるような質のもの…とドンピシャで重なるような気がして、夢中になってお話を聴かせていただきました。


自分がこのタイミングでレッジョ・エミリアについて知り、興味を持ち、学ぶ機会をいただけたことの運命だったり、ある種「興味を持って当然だなぁ!」という必然性みたいなものを感じます。


もっともっと学びたい!と思えた素敵な時間を過ごすことができました。