前回のブログで、Unknowabilityという言葉を紹介しました。

Unknowabilityは発達するにつれ、次第にFEARへと変わってしまいます。

大人にとっての発達とは…?
個人的な考えですが、書いていきたいと思います。

🌟こどもと遊ぶことにより、大人の側にUnknowabilityが生まれていく
こどもたちとのフリープレイって、初めての頃は不安でしかありませんでした😓

どう展開するかわからない。

こどもが何を言ってるのかわからない。

「どこまではっちゃけて良いの?」

もうFEARだらけでした笑


以前のブログにも書きましたが、だからこそ「すごろくを通して数の概念を!!」みたいな、「大人の側のほうがたくさん知識を持っており、だからこどもたちを導いてあげなきゃ」という使命感に駆られるわけなのです。

きっとFEARに満ちたこの段階から、こどもとの遊びはスタートしていくのだと思います。

ただ、こどもとの遊びの中では(というか、対人関係全般において言えることですが)、否応無く常に応答することが求められます。
それは言葉での応答かも知れませんし、身振り手振りや表情かも知れません。
こどもが出した人形に対して、それに呼応するおもちゃを出すことかも知れません。
敢えて「スルー」というのも応答の1つです。

response(応答)+ible(〜できる)でresponsible(責任)になるというのも頷けます。


そして、応答をする中で、だんだんとそのこどもに「なんとなく、この子はこう感じているのかも知れない」と気持ちを重ねてみたり、
「ここでこういう応答を仕掛けてみよう」と、敢えて「ズラす」心の余裕が生まれたりします。

「どうしよう」「ねばならない」という「将来」や「未来」へのFEAR、これまでの知識や経験が否定されることへのFEARが、ある意味予測しにくいこどもたちの働きかけに応答する中で崩され

そこに心の余裕が生まれた結果、「いま、ここ」で何が起こっているのかに焦点が当たり、
ゴールも「正解」も「マニュアル」もない、未知で不確かな関わりへの探究心が芽生えてくる。


こどもと全力で遊ぶ中での大人の側の発達ってなんだろうと考えた時に、私は

①FEARの崩壊と心の余裕の芽生え

②心の余裕があるからこそ芽生える「いま、ここ」への関心

③未知や不確かさに満ちた「いま、ここ」にとどまり、楽しめるような感性の形成

というようなものが浮かびました。
Unknowabilityの獲得、と言えるかも知れません。



🌟どんな遊びが、大人の側にUnknowabilityの獲得を促進するのか?
とは言え、
『遊びスイッチ、オン! 脳を活性化させ、そうぞう力を育む「遊び」の効果』(2013年、スチュアート・ブラウン、クリストファー・ヴォーン著)の冒頭でスチュアート・ブラウン博士が述べているように、

「私たちは成長するにつれて、遊ぶことに罪悪感を抱くようになる」し「非生産的で、時間の無駄、ひいては罪深いことと教えられ」、
その結果「良いとされて残る遊びの多くは、リーグ制スポーツのようにきっちり組織化されて、融通が利かず、そして競わせるもの」だという状況は、アメリカのみならず日本にも当てはまるように思います😣

6年間のおもちゃ売り場でのアルバイトで、日本の市場に出回るおもちゃが大抵この手のものであることを痛感しました。。

このような「良いとされて残る遊び」は
「組織化」されているが故にUnknownな部分は少なく、むしろUnknownであることは不利になり「負け」に繋がり、従って真っ先に否定・排除されるべきものになることが考えられます。

もちろんそういう遊びが悪いというわけではありませんが、こどもとともに大人も発達していくような遊びを考える場合、これとは対極的な、不確かさや即興性・偶発性が入り込む余地に満ちたものが大切なのではないかと思います。


例えば、今かかわっているこどもが最近思いついた面白い遊びがあります✨
その子は2つの紙芝居を手に取り、それを組み合わせてバラバラにシャッフルをし、その絵を見て物語を創ったのでした😳


もしここで「未熟な存在」というこども観を持っていた場合、
「この子に紙芝居の正しい読み方を教えねば!」
「そもそも、作者の意図を無視して物語の流れを変えるなんて!」
という思いを抱くかも知れません。

でも、

「お!きっと何か面白いことが起こるぞ!」

「今まで紙芝居にあまり興味を持っていなかった子が、初めて紙芝居で遊んだ!!」

と、こどもの「いま、ここ」の姿に意味を感じようとし、不確かさを楽しもうと思うことで、2つの別々の紙芝居をなんとか組み合わせるためにその子が用いる言葉の豊かさやユニークさに気付き、一緒にワクワクすることができます✨✨

上に書いた遊びはあくまで一例ですし、「ほら!紙芝居2つ使って面白い物語作りなさい!」と命令したところで遊びにはならないことは言うまでもありません。

でも、例えば環境の中に

紙芝居(欲を言えば、裏に文が書いてない絵だけのカード)だったり、
絵本(最近、文字が書いていない絵だけの絵本を集めています)だったり、
ストーリーキューブ的なものだったり、
いくつかの写真だったり、

そこからファンタジーの世界や物語が膨らんでいくようなものをさりげなく置くことで、そこからこどもと大人との間にUnknowabilityが生まれ育まれるような遊びが展開していきそうだなぁと思います😊

レッジョ・エミリアのシンポジウムの中で、あるアーティストが保育室に、それまで置かれていなかった動物の人形を置いたことで、こどもたちが驚きワクワクし、そこから遊びを展開していったというお話を聴きました。
「ある日突然、それまでなかったものがある!」というのを仕掛け、そこからこどもたちの反応と以降の活動をワクワクドキドキしながら共に創っていくなんて最高じゃないですか✨✨

うまくまとまらないのですが、
①あまり「組織化」されていないこと、ルールやマニュアルが事細かに決められていないこと

②それをどう使うか、そこからどんな遊びが展開されるかという余白が豊富にあり、それらを考えることが遊び手に委ねられていること

③以上を満たしたような、おもちゃやモノを介した遊び、あるいは歌や身体表現、言葉などによる遊び

を通した不確かさに満ちたこどもとの関わりにより、大人の側にUnknowabilityが生まれる可能性があると言えるのではないでしょうか。


長くなり、あまりまとまっておらず荒削りではありますが、とりあえず考えたことを吐き出してみました😊✨

もはや8月の学会以外のいろんな考えが混ざってしまい、何の振り返りなのかわからなくなっていますが、自分がこどもたちとの関わりの中でどんなことを意識したいのか、何に焦点を当て価値を置きたいのか、総じて、自分がどう在りたいのかを考える大きなきっかけになりました。