久しぶりに、修士論文のデータが入ったUSBメモリーを整理していると、論文を書くために買った英語の文献を訳したデータが出てきました📝
英語力が皆無なので、ところどころ(で済めば良いのですが笑)おかしな訳や読みにくい部分がありますが、個人的に大好きな論文の大好きな概念である“情動調律 affect attunement”について書かれた文献を自力で訳したものです😊
もとになる文献を書いた乳幼児心理学者であるダニエル・スターンは、母子交流の場面におけるミクロで暗黙のかかわり合いの様を捉えるというユニークな研究をしています。
私が関心を持っている、関係性の中で即興的に生まれる(したがって、教育のように決められた目標に向かうよう「指導するーされる」という関係ではない)フリープレイのような遊びについて考える際、
どうしても「集団遊びをすると社会性が育まれます」のようなありふれた議論になりたくないという思いがありました。
「もっと、即興的に遊びが生まれるという現象を根底で支え、動かすものを捉えたい!」と思った時に、スターンらの理論に出会い、感激して夢中になって読んだことを覚えています✨
以下、斜体の部分が文献の引用になります。
女の子は、母親の顔を、輝きと溢れんばかりの感激に満ちた表情で見つめる。女の子は“表情を解放し open up her face”[口を大きく開けて、目を見開き、眉毛を上げて]、そして元の表情に戻した。これらの変化が起きた時間の輪郭は、まるで滑らかなアーチを描くかのようである[クレッシェンドがあり、頂点に達して、やがてデクレッシェンドしていく]。
それと同時に、女の子の腕は体の側面で上がり、そして下がる。
女の子の母親は、“やったぁ Yeah”という応答をしたのであるが、それは音量のクレッシェンド・デクレッシェンドのように上がり下がりするピッチラインを伴うものである。文字として示すならば、“yeeAAAaahh”となるだろう。
母親の韻律の輪郭は、女の子が示した表情ー運動の輪郭facial-kinetic contourとマッチしている。そしてまた、正確に同じ継続時間を持っている。
この瞬間において、母親は…(女の子の姿を通して自分が感じ取った生気Vitalityに対する反応として、「やったぁ」という)言葉で伝える代わりに、女の子がしてみせた動きを模倣することも出来なくはない。
例えば、母親は女の子がしたことへのいくらか忠実な模倣として、自分自身の表情を解放し、再び元の表情に戻すかも知れない。
しかしながら、これに関しては、また新たな問題が存在する。
仮に女の子が自分自身の思いを語ることができるのならば、
“オーケー、あなたは私がしたことを物理的には理解したのね。でも、私がその行動を通して感じたことを、あなたも感じてくれているということを、どうやって理解すれば良いの?物理的な模倣をするだけのあなたは、鏡か火星人Martianだわ。どうやって、私は、あなたが心を持った存在であるということを理解すれば良いの?”
母親はこの問題を、選択的な模倣である“情動調律 affect attunement”を行なって解決する。母親な形式的には異なって見えるかかわりに切り替える(行動を見ることから、調子soundを聴くことへ)が、しかし彼女はダイナミックな特徴は正確に維持し続ける。すなわち、これは生気の様式vitality formのマッチングであると言える。
彼女は女の子の行動の型の中にあるエネルギーthe dynamics of the formを共有するが、それは形式的なものではない。この女の子は、その際に、母親が単に自分の行動の真似事をしているのではなく、母親の既知の経験の中から自分が体験していることと類似した何かを見出し、それが2人の間で共有されていることを理解するのである。
(Daniel N. Stern『Forms of Vitality』2010, P.41〜42)下線や太字は私がつけました。
かなり長く、ぼんやりした内容になってしまいましたが、要するに
・相手が「あ、こんなことを感じているのではないか」ということが何となく伝わることってありますよね?それは、相手のちょっとした声のトーンや、ちょっとした表情や筋肉の動きなどが合わさって伝わるのです(スターンはこれを「生気Vitality」と定義しました)。人間は、赤ちゃんの頃から生気をキャッチする力を持っているようです。
・上の引用で、女の子の姿から伝わった生気を確かにキャッチした母親は、母親ならではの応答で「やったぁ Yeah」と返しました。2人の行動は、客観的には異なります。けれど、盛り上がり・盛り下がりに要する時間や表情の変化など、ミクロな部分でマッチしています。この辺りの説明が難しい💦
・単純に「相手の真似をすれば良い」というものでもありません。ロボットが急に右手を振り上げても、そこからは何も意図が読み取れないけれど、人間が急に右手を振り上げたのを見れば、それが「おはよう」を意味するのか、殴ろうとしているのか、瞬時に相手の意図を読み取ることができますよね。つまり、ロボットには生気がなく、人間には生気があるということになります。
・したがって、「相手の真似をすること」と「それが相手とマッチしている、調律していること」とは別問題と言えそうです。
というように整理できるかと思います。
女の子と母親は、「喜びを共有し合う」というその瞬間でのゴールに向かって、客観的には異なる行動をとりながらも“情動調律”することで確かにマッチしました✨
たぶん、喜びを共有し合った2人のかかわりは、この後さらに新しいゴールに向かって展開することでしょう。
即興的なかかわりだからこそ、先が見えない。
“調律”が狂うと、かかわりや遊びそのものが破綻してしまうというハラハラ感もあります。
でも、だからこそその時々に関心が向かい、だからこそ生気を帯びた、その人ならではの受け止め方、応じ方、マッチの仕方が起こるのだと思います😊✨
人と人とのかかわりって、あらかじめ「ゴール」を決めて、その通りになるように仕向ける「マニュアル」的な捉え方で理解するのには相応しくないものだと思います。。
一瞬一瞬の、本当にミクロな「今、ここ」でのかかわり合いによって、かかわりや遊びが展開しているという視点を持つことで、子どもや人へのアプローチも変わってくるかも知れません^_^