父が倒れたと知らせを受けてからすぐに翌日のチケットを取った。
数時間後、病院で再会できると信じていた私に娘から電話。
「ダメだったよ。」
救急車で家から運ばれる途中で心臓が止まってしまったとのこと。
救急隊員の蘇生も虚しく、心臓は再び動くことはなかった。
次の日のフライトで日本に着いたのが夜。父との再会は、葬儀社で。
検死のために痛んでしまった父の遺体をほとんど冷凍状態で保管してくれていた。
母が亡くなったのが2012年12月2日。
昨年12月2日は父と娘家族とで、母の三回忌をしたばかり。
その時に写した写真にオーブが写っていた。
霊感のある人にその写真を見てもらったら、2人の霊が写っているとのこと。
父をどうも誰かが迎えに来ていたらしい。
私は母とも父とも確執があった。
それも子どもの時から。
母が亡くなる1年ぐらい前に、
「洋子は何をしでかすかわからなくて心配だった。」と言われた。
私はそんなこと、この年になるまで知らずにいたので、
そんな思いを母はずっと持っていたのかととても驚いた。
父は父で、私が幼稚園の知能検査で小学校3年生以上の知能があったと、
会う人ごとに自慢していたにも関わらず、私が勉強することを毛嫌いしていた。
私はきっと、両親にとって、小生意気な子だったに違いない。
理屈っぽくて、知識をさらけだし、大人を言いくるめていたのだろう。
10歳離れて妹が生まれるまで、一人っ子で甘やかされて育ったので、
きっと我儘で自分勝手だったのだと思う。
そんな私と両親の間にできた確執。
両親がだんだん年老いてきて、自分たちではなかなか生活ができなくなってきた時、
長女として私は隣町に住んでいるかのように、日本とオーストラリアを行ったり来たりした。
どんなことがあっても、親は親。
最後まで親の威厳を持って生きてもらえるように気を配ったつもりだけれど、
両親に通じてもらえただろうか?
娘二人を持った両親に跡取りはいない。
両親のお墓はオーストラリアに作った。
オーストラリアのお墓は一度作ったら、メンテナンス費用がまったくかからない。
それどころか地球が存続する限り、永遠に存続するお墓。
お父さん、お母さん、
私もいろいろ波乱万丈な人生を送り、少しは成長できたと思います。
オーストラリアの地でゆっくり休んでくださいね。