夫は骨壺に入ってやっと家に帰ってきました。もう痛みも苦しみもありません。
3月5日に書いた記事、ここには書かなかったことがあります。
がんの宣告を夫と一緒に聞いた後、夫を一人で病室に帰し、私と甥は主治医から「余命は半年から1年」と聞いたのです。やっぱりなぁ、というのが私の本当も気持ちでした。
その時は抗がん剤も効果があり、退院のとき甥は「1年ちょっとはいけると思います」と医者に言われたそうです。
3回目の外来での抗がん剤も少し貧血が出たくらいで大したことはありませんでした。
5月1日4回目の抗がん剤は少々違っていました。終わった直後から倦怠感がひどく、今までは3日目くらいから出る食欲不振がすぐに出て、なかなかもとに戻りませんでした。2週間で4キロ痩せました。そして翌週の診察では肺に水がたまっているというので、利尿剤が追加されました。そのせいで午前中は外出もままなりません。そして肩の痛みはひどくなる一方。だんだん力が入らなくなり、とうとう箸でさえまともに持てなくなりました。しかし医者は「少しは運動もしなくちゃ、無理してでも食べなくては」というばかり。途中でステロイドの飲み薬が追加されましたが、まったく効果なし。家では横になっている時間が増え、右肩が痛いのでいつも体の左側を下にして寝ているせいで、左のお尻に褥瘡らしきものもできてきました。咳もひどくなる一方。
その間オジが亡くなったりしましたが、なんとか葬儀には参列できました。
そして5月31日には友人に誘われて今年初めてのジャイアンツ戦を見に行きました。この日私はよほど病院へ連れて行こうかと思いましたが、せっかく楽しみにしているので行かせることにしました。箸が使えないのでベーカリーでサンドイッチを買って持っていくように言って。
ジャイアンツの快勝に帰ってきた夫は「疲れたけど楽しかった!」と喜んでいました。この調子だと来週の火曜日の診察日まで大丈夫かな?と思っていましたが6月2日の朝自分から「病院へ行こうかな」と言い出しました。急いで連れて行き今度は針を刺して肺の水を抜いてもらって帰ってきました。次の火曜日の診察日には調子は良かったのですが、6月8日の朝6時半「また病院に連れて行ってくれ」と言い出し、また車を走らせました。
レントゲンを撮った後心電図をとると処置室に入ったまま1時間も出てきません。看護婦に聞いたら「今肺にたまった水を抜いている」とのことでした。しばらくすると主治医が表れ「椅子にもベッドにも座っていられないほど消耗している。ほかにも転移しているし入院してもらいますが、もうがんの治療は難しい。緩和ケアに入ります。このまま出られないことも覚悟してください」と言われました。前回胸のレントゲンを見たとき左の肺に素人でも「あれ?」と思うもやもやが見て取れたのでやはりと思いました。それ以来外来の主治医の姿は見てません。
夕方5時ごろやっと救急病棟へ行き、ベッドに移したのですがその時は一人で立つこともできませんでした。私は医者に「とにかく何でもいいから痛みを取ってやってください、最初からずーーっと痛かったんですよ!」と訴えました。
翌日には8階の元の病室に戻りましたが、すでにフォーリーバッグがつけられていましたが、尿はあまり出ていませんでした。酸素吸入も欠かせなくなりました。
また私の通院生活が始まりました。でも前回より絶望感に支配されたものでした。毎晩寝付かれず私の枕はものすごくしょっぱくなっているでしょう。
ラジオを聞くのも億劫、新聞も眺めるだけ。私が猫の様子を動画で撮影してみせると、モニターに指を当てて「もも?みかん!」と撫でます。その様子が不憫でなりませんでした。
病棟の主治医にも望むことはただ一つ「痛みを取ってやってください、この5か月ずっと痛かったんです」
緩和ケアのチームが立ち上がり強い薬の経口投与が始まりまり、痛みは少々薄らいだようですが今度はしびれている感じがいやなようでした。薬のせいなのか私が行っても眠っている時間が多くなりました。
6月18日医者から詳しい説明がありました。曰く「左肺と肝臓と肩に転移していてあとひと月くらい」
私は思わず大きな声で「いつ転移したんですか?!最初からずっと痛かったんですよ!」「わかりません」
そしてこれ以上悪くなった時のために、中心静脈栄養とモルヒネの点滴の承諾書にサインをして帰りました。
6月19日昼前に病院から電話があり「昨夜また様態が悪化したので昨日お話しした点滴を始めました。3時過ぎにお話があります」
今度は義姉2人と一緒に話を聞きました。「昨日はひと月くらいとお話ししましたがおそらく1週間くらいと思われます」
その時急きょ会いに来た親友の顔はかろうじてわかったようですが、もううわごとのように「トイレに行く、トイレ」と叫んでいます。
部屋はナースステーションの前の部屋に変わりましたが個室ではなく、カーテンで仕切られた向こうの人は人工呼吸器をつけていてあちらも具合がかなり悪そうな感じ。たまらないと思い個室をお願いして翌日移すことにし、私は病院に泊まることにしました。台風の夜でした。
夜11時過ぎから「足がつった、イタイイタイ」から始まって「苦しい苦しい苦しいよ~」と叫び続けます。それでも一回自分で体を起こして吸い飲みで水を飲みましたが、その後は唇を濡らしただけで満足してしまいました。そのうち鎮静剤で静かになりました。午前2時頃でした。一次血圧が50台になり、もう長くないことを感じていました。
翌朝義姉と付添を交代し、私は家に帰って猫さんズを獣医さんに預けてまた病院に戻りました。
その頃義姉は医者から「週末までは難しいかもしれない」と聞いていました。
午後夫を個室に移しました。少々狭いものの静かできれいな部屋でした。
義姉と入れ替わるように姪が娘を連れてやってきました。
姪たちが帰ると今度は夫が兄貴と慕う先輩がやってきて、ひとしきり顔を見て帰りました。
その30分後、心電図モニターが突然フラットになり、看護婦に続いて医者がやってきて型どおりに診察して死亡が確認されました。午後7時20分でした。
看護婦さんに着替えさせてもらってきれいにしてもらった顔を見たら、あまりに穏やかにきれいな顔をして本当に驚きました。やっと痛みが取れて楽になり久しぶりにあおむけで寝ることができたのです。本当によかった。その時病室から見た夕焼けは実にきれいなものでした。
そして今日告別式が滞りなく終わり、夫は今私のそばにいます。
遺影は昨年の大みそかに私が撮影したもの。かすかに微笑んでいます。
火葬場には思いがけずたくさんのお友達が夫のお骨を拾いたい、と一緒に行ってくださいました。
本当に急いで逝ってしまいましたが、通夜告別式に会社を休まなくてもよいように、特別室の料金が2日分にならないように、今度のキルト塾に私がいけるように、色々気配りして急いだのかしら?とみんなで話しています。「おじちゃんらしいね」と。
後悔することはたくさんあります。夫が何か悪いことでもしたのかしら?だからこんな罰を受けるのかしら?とも思いますが、きっとそれは私へ罰なんだと思います。それを心してこれから生きていかねば、また夫にあった時に合わせる顔がありません。
夫には「待っててね」とお願いしましたが、もしかしたら「会いたくない」と思っているかもしれませんね。
さ、キルトに精を出さねば!新作のタイトルは決まりました。どこかのコンテストに入選するように頑張るだけです。