●秋の乗り放題切符で関門地域へ(2日目…part2 北九州平和の町ミュージアム②)
2023/10/9(月)…part2
戦局は次第に傾き始め1944年夏のマリアナ諸島(サイパン・グアム。テニアンの各島)が陥落した事により本土空襲の危険が迫った。
北九州地方には八幡製鉄所、小倉陸軍造兵廠をなどの軍事産業が存在していた関係で米軍からのターゲットでした。
日本本土を襲ったB29戦略爆撃機が初めて日本本土に来襲したのは1944年6月15日の八幡製鉄所への爆撃でした。
この時は中国大陸からの発進でしたが爆撃の効果は小さく爆撃範囲も北九州エリアにしか届かなかった。
そこでマリアナ諸島を奪取した米軍は此方に爆撃機の基地を建設。
日本本土を襲う作戦に変更してハンブルグ爆撃で名を挙げた第21爆撃兵団(カーチス・ルメイ少将指揮)を派遣した。
ここから日本本土への空襲が本格化する。
(空襲の始まり)
左側の展示品は " 手動式のサイレン " で警戒警報時と時の2種類の警報音が鳴る仕組みです。
それらの音はボタン操作によって実際に体感可能。
右側の電灯は灯火管制時の様子を再現したもの。
(手動のサイレン)
戦時国際法によれば非戦闘員もに対する爆撃は厳しく禁じられていましたがご周知の通り第二次世界大戦後期にはこの様な倫理観は霧散して一般人への爆撃は日常茶飯事と化した。
軍事工場、軍事施設以外もターゲットとする所謂 "無差別爆撃" と言うやつでその極致が広島・長崎への核攻撃となる。
(無差別爆撃)
日本本土への空襲は終戦の日まで続きましたが欧州の戦争とは違って通常爆弾ではなくて焼夷弾が大量投下された。
焼夷弾は爆弾の炸裂による打撃よりも目標物に火を点けて焼き払うと言う機能に特化した物で木造建築物が多い日本の都市への攻撃には適していた。
その焼夷弾による高熱により変形した品々が展示されている。
(空襲下の品々)
此方は "M50焼夷弾のレプリカ" です。
焼夷弾にはその特性によって幾つかのバージョンが有って此方はB29爆撃機によって投下されて八幡市を焼き払った代物。
米軍はM69焼夷弾を東京・名古屋・大阪・神戸への空襲で使ったが八幡市に対しては化学反応を用いたこの焼夷弾を使った。
その特徴は2300℃にも及ぶ高熱を発して建造物を焼き払う。
水による消火は100%不可と言う最強最悪の焼夷弾です。
(M50焼夷弾)
米国は原爆投下候補地として広島・小倉・長崎・新潟を挙げていた。
これらの都市は終戦間際まで殆ど空襲を受けていなかった。
その理由は原子爆弾を投下してその威力を試してみる場所として意図的に "温存" されていたのだ。
巨大な陸軍造兵廠が有った小倉は広島に次ぐ有力な候補地でした。
1945年8月9日にテニアン島から飛来した2発目の原爆を搭載したB29は小倉市上空に達したが雲量が多くてターゲットの陸軍小倉造兵廠を目視確認できず爆弾倉の扉を開いたまま投下のチャンスを掴むべく旋回していたが遂に雲は晴れず燃料切れの恐れから長崎に転進する事になる。
因みに小倉への原爆投下の障害となった分厚い雲は前夜に行われた八幡大空襲による煙だったとされるから何とも複雑な思いになる。
(原爆攻撃の候補地)
此方は当時の国民学校の校札です。
戦時中に学制が変更されて尋常高等小学校は国民学校と名称変更になった。
銃後の子供たちにも戦時の心得が教えられていました。
戦争は老若男女問わず人々の性向を変えてしまう事件です。
(国民学校の校札)
現在の北九州市は門司・戸畑・八幡・若松・小倉が合併して発足した。
その内で空襲の被害が顕著だったのが門司&八幡。
戦後の復興もそこから着手された。
(戦後の復興)
平和の町ミュージアムを出てから勝山公園に有る原爆慰霊碑に行く。
本来ならば小倉市に投下される筈だった2発目の原爆が長崎市を襲って14万人を殺傷した事実は何とも言えない気持ちです。
(原爆慰霊塔 ①)
慰霊の折り鶴がたくさん吊られています。
被爆地の広島・長崎だけでなく小倉でも核兵器反対の気持ちは変わらない。
核保有国はこの歴史を如何に認識するのでしょうかね?
(原爆慰霊塔 ②)
時刻は15時を過ぎています。
防府を出てから朝飯抜きで活動してきましたがもう空腹は限界です。
そろそろ何か食っておかないと倒れちゃうかも?
そこでお食事処を探す為に北九州リバーウオークまで行く事にする。
(part3に続く)