三井三池炭鉱の産業遺産を巡る(2日目…Part5) 三川抗跡の散策①
2023/7/29(土)…Part6
万田坑から三川抗までは自転車で30分程です。
道中には急坂も有りますがここは電動自転車の強みで楽チンでクリア。
普通の自転車では苦戦必至の坂道も問題無し。
その途上に "三池炭鉱鉄道の軌道" が有ったので立ち寄ってみます。
(三池炭鉱鉄道の軌道)
三川抗に着いたのは16時前でした。
拝観時間は17時でお終いですから大急ぎです。
センターハウスにはボランティアガイドが居られますから同行を依頼します。
時間が無いから先ずは "入昇坑口" から入って行く。
どうやら私が本日最後の訪問客の様です。
(入昇坑口)
入昇降坑から階段を下って地下通路を左折すれば第二斜坑の入口に出る。
ここには坑内作業員の送迎を行うトロッコ列車が保存してあります。
この抗口は1940年に開坑したもので昭和天皇がこの地を訪問なさった時には実際にご入坑されたと言う歴史を持つ。
奥に見えているべトンで封鎖された部分がかつての斜坑の入口です。
この奥には長さ2000m、斜度11°の斜坑が地底に向かって延びており坑内作業員、坑内の入気、資材の搬入、坑内の排水などを担ったのだ。
(第二斜坑)
旧い軌道が残されておりその向う側にはグリーンの網が掛けられた建物が見えます。
この建物は "繰込場" と呼ばれており当日の作業員の配置、役割分担などが言い渡された場所であり入坑前の待機場所でもあった。
二階部分は講堂として使われていたそうです。
老朽化のせいでしょうか? 現在は立入禁止です。
その左側のスペースは坑内電車の点検場になります。
(繰込場&点検場)
点検場を撮影してみました。
現在も風雨に晒されて錆付いた車両が遺されています。
閉山してからかなりの年月が経過していますから当時の繁栄は夢の跡。
(点 検 場)
ガイドさんの足が速くて付いて行くのが大変。 (笑)
この三川抗に於いては絶対に語り継がれなければならない事がある。
それは1963年11月9日に発生した "大規模炭塵爆発事故" です。
当日の15:12に三川抗第一斜坑の坑口から1.6㎞地点に於いて炭塵爆発が発生して458名の殉職者と839名の一酸化炭素中毒患者を出すと言う戦後最悪の炭坑事故となった歴史。
ガイドさんが仰るには "その原因は石炭を満載した炭車の連結部が金属疲労により破断して脱線したまま暴走して炭塵が坑内に充満。
加えて機関車の架線を脱線した炭車が切断してショートした火花が炭塵に引火して大爆発に至ったとの旨。
この事故が三川抗の名が世に知られる源となったのは皮肉な事でした。
建立された慰霊碑は事故があった第一斜坑の坑口(現在は埋め戻されて消滅)に建立されており殉職された方々のご芳名が刻まれる。
ここで暫しの合掌をしておきました。
(炭塵爆発事故慰霊碑)
慰霊碑を後にして第一巻揚機室に向かって移動します。
真っ直ぐに延びた道が眼前に広がる。
当時はこの道に沿って昇降用ワイヤーが有ったと言う事だな。
(第一巻揚機室への道)
当時の掘削作業は圧縮空気を用いていました。
此方の機器は当時に使われていた物。
展示品をじっくりと拝見させて頂きます。
(各種の掘削機)
前述の掘削機を稼働させる為の圧縮空気を作っていた建物。
平たく言うならば "コンプレッサー室" であります。
採炭現場を維持する為の重要なプラントですが立入禁止です。
(圧縮空気室)
第一巻揚室は作業員を運ぶトロッコの昇降を担っていた。
当初の巻揚げ室は木造のものでしたが炭塵爆発による猛烈な爆風によって倒壊したので鉄骨造りに建替えられた。
以下に第一巻揚室の写真(①~④)をアップします。
(第一巻揚げ室 ①)
(第一巻揚室 ②)
ガイドさんが仰るには写真のタンクには冷却水が入っていたそうです。
(第一巻揚室 ③)
(第一巻揚室 ④)
ガイドさんが巻揚機の操作席まで案内してくれました。
操作員がここに陣取って計器を見ながら巻揚げ機を稼働させた訳です。
保存状態も当時のままです。
(巻揚げ機操作席)
(Part7に続く)