●紀州九度山町を訪れる(真田ミュージアム)…前編
今年の6月に高野山にお参りしたがその時に高野山麓に有る九度山町について思い起こす事になりました。
歴史オタクの私にとって戦国武将の史跡訪問は垂涎の活動。
特に徳川家康に二度も苦汁を飲ませた真田昌幸は私の興味をそそる武将。
浜松に居た頃から関ヶ原合戦後に彼の流刑地となった九度山町は一度は訪れる冪と考えていました。
その事をすっかり失念して数年を経て漸く "その気" になったのだ。
JR時刻表を調べたら始発電車で出発すれば余裕で往復できると分かったので実行に移します。
あわよくば和歌山駅界隈で " 和歌山ラーメン " でも食えるかも知れない。
そんな訳で小生お得意の "青春18切符" を手に出発となった。
2023/8/5(土)…前編
始発電車で出発して姫路・大阪・和歌山の各駅で乗り継いでJR高野口駅にて下車。
後はスマホのナビ機能だけが頼りです。
九度山町は駅から徒歩で30分程らしい。
(JR高野口駅)
紀の川に架かる九度山橋に差し掛かりました。
この橋を渡り切ったら九度山町の中心部です。
現在は私が想像していたよりも開けた地域と思えたが真田親子の流刑地だった頃は高野山麓の寂れた村落だった様です。
(九度山橋)
九度山橋を渡れば観光案内板が有ったので目を通しておきます。
最初の目的地は "真田ミュージアム" です。
私としては7/31(月)に九度山訪問を行う予定だったが当館が月火が休館日ですから本日になったのだ。
真田氏所縁の歴史探訪の為に九度山町を訪れるのですからここだけはオミットできません。
真田ミュージアムに着いてホッとしました。
漸く空調が効いた建物の中に入れるのですから…。 (笑)
(真田ミュージアム)
エントランスロビーには真田昌幸・幸村・大助の三代の人形&幟が設置されて一気にモチベーションが高まる。
それでは館内を拝観して行きましょう。
入館料は500円(企画展示込み)ですが企画展示が開催されていない時は300円らしい。
此度は500円となります。
(エントランスロビー)
最初の展示室に入りますがここには真田氏が歴史舞台に躍り出た経緯についての解説板が並びます。
真田氏は上州の豪族でしたが真田幸隆が武田信玄に仕えた事で一気に著名な存在となる。
調略に長けた幸隆の活躍により武田家は領土拡大に成功。
幸隆には信綱・昌輝・昌幸と3人の倅が居た関係で真田家は信綱が嫡男の地位にありました。
三男の昌幸は人質と言う形で武田家に預けられていたがその才覚は群を抜いており甲斐の名門武藤家の養子となりその名跡を継いでいた。
ところが長篠の合戦で2人の兄が戦死したので結果的に真田家を継いだのだ。
武田信玄を筆頭に "武田二十四将の図" と言うのが有りますがその中には真田家の3人(幸隆・信綱・昌幸)が名を連ねている事は注目に値する。
ブログの紙面の都合で詳細は割愛して徳川軍を二度に渡って退けた "上田合戦" について記します。
武田家が滅ぼされた後に甲斐・信濃・上州は領主が居ない空白地帯となったが徳川家&北条家の和議が成立した関係で真田家が領していた上州の一部が徳川家康からの指示で北条方に割譲される事になる。
昌幸はこれに反発して "わが領地は自分の力で勝ち取ったもので徳川家の指図は受けない!" と突っ張った。
これに伴い徳川軍は上田城(昌幸の居城)に侵攻したが敗退の憂き目に遭う。
昌幸は羽柴秀吉を頼って家康と和睦して領地の確保を果たすが徳川家との軋轢は始まったばかりだった。
(第一次上田合戦)
太閤秀吉の死後、官僚派(石田三成・小西行長・宇喜多秀家など)vs武断派(福島正則・加藤清正・加藤嘉明など)の対立に付け込んで徳川家康が権力を拡大した。
これに伴い勃発したのが日本史上有名な "関ヶ原の合戦" 。
真田昌幸は信之(長男)は徳川方(東軍)に、自分と幸村(次男)は石田方(西軍)に付くと決める(犬伏の分かれ)。
江戸を出立した徳川軍は二手(東海道&中山道)に分かれて西進する。
東海道は豊臣家の武断派の武将たちを率いる徳川家康。
中山道は徳川秀忠率いる主力の徳川本軍であったがまたしても上田城に釘付けにされて(第二次上田合戦)肝心の関ヶ原合戦に遅参すると言う醜態を晒す事になった。
仮に関ヶ原合戦が石田方の勝利に帰していたら徳川軍の主力を足止めさせた事で昌幸の功績は多大に評価されて真田家は大大名にのし上がった可能性が有る。
せっかくの上田城での奮戦も本戦(関ヶ原合戦)での敗北により無に帰してしまった訳です。
この結果、昌幸&幸村は九度山村に流罪と決まりこの地にて "謹慎生活" を強いられるのです。
(第二次上田合戦)
次に真田家が歴史の表舞台に出るのはかの有名な "真田丸" での奮戦。
大坂冬の陣に於ける徳川家vs豊臣家の決戦です。
実はこの合戦の3年前に昌幸は亡くなっていたのだが彼は幸村に "あと数年後に徳川vs豊臣の合戦が勃発する!" と予言していたと言われる。
その時に父の昌幸は幸村に対して豊臣家を勝たせる為の案を伝授したと言う。
その案を聞いた幸村は自分でも発案できる程度の何て事ない戦略だと感じたが昌幸は "この戦略を実行するのはお前では無理だろう。合戦に勝つ戦略などは幾らでもあるがこれを上に立って実行する武将への信頼度が最も重要である。仮に私(真田昌幸)が将としてこの戦略を指揮するならば上田城にて二度も徳川軍を撃退した私への信頼度を鑑みて配下の兵は忠実に動くだろうがおまえ(真田幸村)は若くして九度山に配流されたから世間的には無名であるが故に部下達は不安に思ってこの案を失敗に終わらせる!" と。
つまり上に立つ人の信用度が戦略の成否を左右すると言いたかったのである。
この理屈は現代社会でも通用するのではないでしょうか?
つまりトップへの信用度が如何に大切かを知らしめる名言でしょう。
豊臣秀頼からの招きを受けて九度山村を秘かに脱出した幸村は大坂城に入って軍義に於いて昌幸から伝授されたこの戦略を主張したが秀頼の側近によって却下された為 "真田丸" を築く事によって大阪城の弱点を補強する事に至った。
その真田丸での奮戦はもはや小生ごときが述べる必要はなかろう。
徳川軍を翻弄して局地戦ではあったが大勝利を挙げて見せた。
しかし、冬の陣は徳川・豊臣両家の和睦で終結を迎える。
(大阪冬の陣)
冬の陣は和睦になったが家康は再び豊臣家を挑発して "大阪夏の陣" が起こる。
和睦の条件として大阪城の堀を埋め立てると言う事で大阪城は既に堀を失って丸裸状態であり豊臣方は城外に打って出る以外に選択肢はなく野戦に引きずり込まれる事になります。
野戦ならば兵力が勝敗を決める重要な要素ですしこれは野戦を得意とする家康の思う壺。
真田幸村は徳川の本陣に攻め入ったが衆寡敵せずに敗退。
安居神社にて陣没して豊臣家は滅亡。
この時に真田大助(幸村の倅)も秀頼に殉じて自決した。
以降は260年に及ぶ江戸時代が幕を開けるのだ。
これで真田家が関係する合戦の歴史は終焉を迎えた。
(大阪夏の陣)
東軍に味方した真田信之は家康から本領を安堵され九度山に蟄居した父&弟への経済的援助を続けた。
それでも上州の大名として生活していた昌幸にとってはある程度の格式は保った生活を望んだと言う。
その為に "仕送り" だけでは足りなくて生活の糧を得る為に "真田紐" を作って売り捌いて収入を得ていたと言う。
その解説コーナーが此方です。
(真田紐の製造)
此方の部屋は "DVDシアター" で真田家に関する映像が見られます。
時間の余裕が有るならば是非とも見て行って下さい。
簡潔明瞭に真田家のあらましを理解できます。
(DVDシアター)
此方は2016年の大河ドラマ真田丸で使われたロケ用の甲冑です。
主演の堺雅人さんが着用した物だろう。
私もかなり熱を入れて毎週見ていた番組でした。
そのお隣は真田丸を再現したジオラマ模型です。
(大河ドラマの道具)
此方は "真田十勇士" の解説板です。
真田幸村に仕えた10名の家臣とされるがこれはあくまでもキャラクターであって実在したか否かは諸説が有る。
(真田十勇士)
ここからは "特別展示室" になります。
此度の企画は忍者に関するものですが私にはあまり関心が湧かないジャンル。
私が子供の頃は "忍者ハットリ君" とのアニメが流行っていたな。
現代ならば "忍たま乱太郎" かな? (笑)
(特別展示室)
此方の展示は忍者が使う小道具類です。
忍者は "忍びの者" とも呼ばれ大きな合戦の前には活発に動いて敵方の情報収集にも尽力した。
忍者をうまく使いこなせる事が武将たちにとっては重要だったのだ。
(忍者の小道具 ①)
(忍者の小道具 ②)
真田ミュージアムには2時間半も居ました。
と言うか外が暑いからなるたけ涼んでおきたいと言う邪念が有った事も否定できないな。 (笑)
取り敢えずはこの施設内の展示品は網羅できたと思います。
(真田ミュージアム)
(後編に続く)