●太平洋戦争の戦跡訪問記 第4次グアム島の巻(4日目…part1) | マウンテンフリークのブログ

●太平洋戦争の戦跡訪問記 第4次グアム島の巻(4日目…part1)

   2012/8/17(金)

am6:10にホテルを出発しました。

夜中に雨が降ったらしく路面は濡れていますからスクーターの運転には注意です。

昨夕にスクーターの貸し出し時に係員から次の様な勧告を受けました。


1.グアム島に於いては二輪車はヘルメットの着用は義務付けされていない。

2.グアム島は基本的に車社会ですから二輪車への対応に慣れていない人が多い。

3.四輪車が追い付いて来ても絶対に道を譲る為に右端に寄ってはいけない。

 あくまでも車線の中央を堂々と通行する事。

 下手に道を譲ると後ろから引っ掛けられて事故になる原因となる。

4.要するに日本と違って二輪車はマイナーな存在であると自覚する事です。


それから面白いのは日本では二輪車はヘルメットの着用が法律で義務付けされているがここグアム島では二輪車にはそれがなされておらずかえって自転車に乗る場合にはヘルメットの着用が義務化されている事です。

グアム島に旅行される時の参考にして下さい。

従いまして貸スクーター屋もヘルメットが必要か否かを尋ねて来ますが私はやはり必要と判断して借りる事にしました(貸出し料は無料)


まずは朝早くから営業している食堂を探す事から開始です。

グランドホテルの向かいに24時間営業のラーメン屋が有ったのでここで朝食をとる。

朝っぱらからラーメンとはおかしな食生活だがとにかく麺類が食いたかった。

最初の訪問地はホテル・ニッコーグアムの北側のガン・ビーチです。

ここには日本軍の砲台陣地が有って朽ちかけた短二十糎砲が遺ります。

この地は過去に2度訪問しましたが砲台内はゴミだらけで管理状態が悪過ぎです。


 (タモン湾を睨む短二十糎砲)
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石を積み上げて造られた砲台陣地の掩蓋も遺されています。

砲撃戦の時に退避する施設なのでしょう。


(砲台陣地の掩蓋)
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この砲台陣地は米軍との戦闘には使われなかった様です。

何故ならば米軍はタモン湾ではなくてアサン、アガットの両海岸に上陸したからです。

タモン湾には他にも多くのトーチカ陣地が築かれたが何れも使われなかった様です。

 (短二十糎砲)
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ガン・ビーチを後にする頃には小雨になりましたが雨具は着用せずにそのままR1を北上してグアム島北部の戦跡に向かいました。

道順は熟知していますから道に迷う事は無いが心配なのは本日の天気です。

北上して行くにつれて雨足が激しくなって雨具を着る事にしました。
オレンジ色の登山用の雨具ですから視認性も良くてとにかくよく目立ちます。

米軍記念碑が有る敷地内は工事が進んでおり碑に触れる事も出来ました。

芳賀さんが仰るには”この記念碑は最初はマリンロード上に設置されていたものです。この記念碑だけは米国によって戦後直ぐに設置されたものですが実際の戦場跡に無ければこの記念碑自体の意味が薄れてしまいます。こんな碑の存在価値を大切にするべきです”との旨です。


  (米軍記念碑)
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次は前回も訪れたジーゴ戦記念碑に向かいます。

雨天時のスクーターの運転は本当に神経を使わされます。

とにかくゆっくりとした速度で運転する事を心掛けます。

グアム島を模った緑色の碑がジーゴ戦記念碑です。

この記念碑はジーゴ村の村長と昵懇だった芳賀さんとその仲間たちが発起人になって土地を貸して貰って建立したものです。

その関係でこの地はジーゴ村が管理しているそうです。

グアム島の日本軍守備隊は1944年7月21日に上陸して来た米軍の圧倒的火力の前に北部に敗走してこのジーゴ村の高原山(サンタロサ山)を拠点に8月7~8日にかけて激しく抵抗しましたが第31軍司令官の小畑英良中将以下殆んどが散華しました。

芳賀さんの仰る所では小畑中将は又木山の陣地壕で自決されたとの通説になっていますが実際は高原山近くで米軍の空爆によって亡くなられたそうです。

その戦死の地も生き残った日本兵の証言で判明していますが現在は私有地内にある関係で許可無しでの立入りは出来ないそうです。

確かに日本軍人の最期として最後まで戦って自決したと言うシナリオには尤もらしい気がしますが事実がそれと異なっている事が明らかならば正しく後世に伝えられなくてはなりません。


  (ジーゴ戦記念碑&慰霊碑)
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次は高原山に向かいます。

前述の通りこの付近は日米両軍の大激戦地ですがそれを証する戦跡については私は全く情報を得ていません。

従いましてこの地では米空軍アンダーソン基地を見おろせる高台で焼香を実施です。

本来ならば日本軍陣地跡での慰霊が望ましいが仕方有りません。


  (米空軍基地を見渡せる高原山)

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次は又木山(南太平洋戦没者慰霊公苑)に向かいます。

確かam8:00が開門時間ですからもう入場は出来る筈です。

スクーターを走らせるが所詮は原付に過ぎませんから移動には時間が掛かります。

am9:00に現地に到着してまずは敷地内のに有る平和寺で焼香を行います。

展示された日本軍の遺品類をサッと見てから慰霊塔に向かう。


 ( 平 和 寺 )
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雨は一向にやむ気配は有りません。

グアム島で亡くなられた方々の”涙雨”とも思えて来る様な降り方です。

劣勢にも関わらず祖国の為に最後まで戦った方々に感謝の言葉しか見付からない。


(戦没者慰霊碑をバックに撮影)
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日章旗を握り締めて焼香壇にお線香を立てて合掌です。

勿論、恒例の如く”海ゆかば”の独唱も欠かせません。

”亡くなられた将兵の皆さん有難うございました!”


 (戦没者慰霊碑に参拝)
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この後はいつも通り日本軍の陣地壕を見て廻るが雨で足元が滑り易いから注意深く歩かねばなりません。持参した日章旗を慰霊碑に掛けて記念撮影を実施。

将兵の皆さま祖国の国旗(日章旗)をご覧頂けましたか?

帰国後に芳賀さんからのメールが届きましてこの又木山に於いては日米両軍の戦闘は無かった事が判明していると知らされました。

即ちこの地には戦没者が眠っている訳では無いのです。

慰霊塔の傍に並んでいる慰霊碑群は戦後にグアム島の戦友会が建立した物でジーゴ村での戦闘とは全く関係が有りません。

そしてこの又木山に遺された陣地壕は衛生隊の壕だった可能性が高いらしい。

従いましてこの又木山がグアム島守備隊の終焉の地と言う定説は誤りなのだ。

グアム戦の終盤は米軍の猛追に晒された日本軍は組織的な戦闘力を失っており米軍を食い止める術は全く残っていなかったのが事実。

日本軍の残存部隊はサンタロサ山、タラグエ海岸(現在は米空軍基地内)方面に逃れて行きそちらで最期を迎えたのが真実らしいです。

これまでこの地が玉砕の地として慰霊を行っていた私としては少し騙されていた様な気がして複雑な気持ちですがその誤った情報について全く知らずにいた事が私の慰霊の気持ちを否定するものではないのでこれまでの慰霊行動は英霊の皆様には通じているものと信じたいです。


  (又木山の慰霊碑)
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 (日本軍の陣地壕)
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 (南太平洋戦没者慰霊公苑の門)
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この又木山での活動に1時間を費やしました。

これからの予定も有る事ですしスクーターを始動して南に向かいます。

まずはハガニャ米海軍墓地内に遺るお椀型の日本軍トーチカ陣地を訪問です。

私はこの陣地の存在は全く知らなかったが芳賀さんから頂いた小冊子で知った。

長年の風雨に晒されてボロボロですが確かに確認しました。


 (米海軍墓地内のトーチカ陣地)
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あまりの激しい雨足に嫌気が差してハガニャ市内の戦跡はオミットしてアデラップの太平洋戦争博物館を見学する事にしてそちらに向かいました。