息子の大悟がARTに興味を持っています。
学校の授業でもARTが一番好き。
学校の個人プロジェクトもARTを選択。
私も子供の頃はARTが好きで、絵を習っていました。
それで、小学校3年生くらいの時に絵の合宿で犬吠埼に行って、
海と犬吠埼をテーマに水彩画を描きました。
そしたら、犬吠埼の横にあるホテルを、現実のものよりやたらデカく、しかも白なのにピンクに塗ってしまい。
他のお姉さんたちはみんな油絵で、犬吠埼と周辺を美しく清楚に仕上げてるのに、私の絵だけホテルと犬吠埼の遠近感がひどい仕上がりで。
先生やお姉さんたちはなぜかすごい褒めてくれたのですが、
私はみんなの気遣いが痛くて。
私はなんでホテルを大きく描いてしまったんだろうか。
犬吠埼が主役であるはず場所で
場違いに誇張されて描かれたホテル。
そう見えちゃった。
そうとしか見えなかったんだから仕方ない。
周りの人はそこにアートをみてくれたのでしょうが、
私はただただ恥ずかしくて、
みんなに気を遣われてるとしか思えず、
合宿所の夜、みんなと一緒にいられずに一人で部屋の隅っこに丸まって泣いてました。
ところが。
その絵がなんと東京都の賞に選ばれて、銀座のそごうデパートに展示されたというまさかの出来事に発展にしたのです。
それでも私は全く嬉しくないし、違和感しかなくて、飾られてる絵を見ても、もはや他人事の気持ちでした。
その後、
先生は私に猛烈に抽象画を勧めてくれました。
そうなんですよね。
今だからわかるけれど、世界が抽象的に見えてるんですよね。
見たいものだけがやたら誇張されていて、
それ以外のものが見えていない。
しかも完全に自分の世界中で生きてるから、発想が無限大に自由。
そして気持ち良いくらいに興味の対象が明確で、それ以外は見えない。
自分にとっちゃ普通のことでしたが、先生からしたらある種の特殊技能を見出してくれてたわけです。
けれど
あの時の私には抽象画の概念が全くわからず
周りが求めるものも一切わからず。
色んな人の抽象画を見てなんとなく外堀かためて、
リトグラフみたいな幾何学模様を適当にあしらった、「要は何もないもの」しか描けませんでした。
あの時、犬吠埼で先生やお姉さんたちが興奮気味に評価してくれた、犬吠埼(の隣のホテル)の絵のように、迫ってくるものはそこになく。
それもそのはずで、私は自分の感覚を恥じていて、普通になりたかったんです。
私もお姉さんたちのように綺麗な犬吠埼が描きたくて、自分にはその才能がないとは知らずに、何もない風景画や静物画ばかり描きたがりました。
そごうデパートの栄光を引きずる親や先生(主に祖母)が私を絵の道に進ませようと、絵が学べる高校を勧めてくれたりもしましたが、
私の中で絵に対するパッションは消失していました。
たかが一度、それもまぐれで賞取ったくらいで、
(しかも一切気に入らないもので)
その道に進めと言われても、何をどうしたら上手くいくのか一切見えず。
結局絵はやめてしまいました。
絵を描いている時に湧き上がるある種の「迫りくる感覚」をもっと突き詰めていたらどうなっていたんだろう?
私はそれが湧き上がるたびに「枠から外れること」よりも「普通」を選んで来てしまいました。
表面的な世界を見ている時は動き出さない、あの領域。
景色の一部だけが、蠢いたり、浮き出したりしてくるあの感覚。
私はそれを大人になって、ヨガの世界に身を置くことにより、もう一度友達になり、自由に扱えるようになりました。
これ、自由に羽ばたかせるのはいいけれど、
芸術家ってデリケートすぎて精神的に不安定だったり、現実世界とのギャップに苦しむ人多いですから、
ちゃんとコントロールしてあげないとでもあるんです。
それで今、息子の大悟がARTを選択し始めてて。
学校の休み時間にみんなと外で遊ばずに美術室で絵を描いたりしてるようなんです。
ARTの先生がとてもアーティスティックな人で、先生から色々習ってるようです。
それで息子の絵は色使いが素晴らしくて、ハッとさせられます。
それと人物画が苦手なの。
そこが私と一緒。
人の形態よりも、外の世界がデフォルメして写る。
だからもしある種のDNAが作用してるなら、大悟もデフォルメ脳なんじゃないかと。
似たような世界を見てるなら、
あの時私の脳内を理解して導いてくれる人はいなかったけれど、
彼の脳内の世界を取り出す手伝いをしてあげられならなと思っています。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
愛と光をこめて✨
長谷川陽子