ヨコハマぽるとカップ②~そのチャレンジの歩み~ | 横浜FCオフィシャルブログ「F!Diary」Powered by Ameba

ヨコハマぽるとカップ②~そのチャレンジの歩み~

※今回も、字が多くて長いっス・・・


FCこんにちは、ホームタウン担当メガネです。
思いのほか振り返るべきことが多くて!?、不定期連載企画となってしまった「ヨコハマぽるとカップ」シリーズ
11月1日付の横浜FCDiaryから、ようやく続きを書くことができそうです得意げ



今回は、2008年から始まったぽるとカップ横浜FCエンブレム横浜FCとの歩みについて、まとめてみようと思います。
担当者として思い出されるのは、そもそもが手探り状態から始まった第一回から、毎回毎回、新しいチャレンジと、それに対する方向付けについて、委員会メンバーと議論を重ねに重ねた上での開催を続けてきたことが浮かんできます。


その年ごとのテーマ、チャレンジ内容に触れながら、これまでの大会を振り返る横浜FCダイアリーです。





☆2008年☆
「とりあえずやってみた」、第一回大会


今でも実行委員会の中で『伝説の第一回大会』と語り草となっている第一回ぽるとカップ。


先のパート①でも触れたように、実行委員会メンバーも、横浜FCエンブレム横浜FCも、確たる大会の姿が見えないままスタートしたこの年。

横浜FCとして協力させていただいたのは、

・試合前のウォーミングアップ指導
・優勝チーム、個人表彰者への選手サイン入りグッズプレゼント

の2点。


なにしろ、初めて顔を合わせるチーム同士の集まり。
いきなり試合を始めて、果たして試合に集中し、盛り上がることができるのか。
そして、大会を通じて頑張った結果を、何かの形で持ち帰ってもらいたい。


そういった思いを大会参加者に届けるために、
ふだん小学校巡回に出ているコーチと共に、体と心を温めるウォーミングアップタイムをプロデュースし、
頑張った選手には憧れのプロサッカー選手のサインメモが入った横浜FCグッズをご用意させていただくことにしたのです。



「大会当日に横浜FCの方々に来てもらえるだけで、参加者の皆さんには喜んでもらえることなので、そこまでしていただいて恐縮です」

なんてことを言われながら、迎えた大会当日。


とはいえ、私自身も当事者の方々とお会いするのがこの日初めてだったので、

「こんな朝早くから、テンション上げてもらえるかなぁかお
「どうする? ボールを持った瞬間、拒否反応されちゃったらあせる(汗汗汗)」


なんてことを二人で色々と心配しながら、大会会場へ向かって行ったのを覚えています。



しかしながら、12月の早朝、県立保土ケ谷公園ラグビー場には、朝陽に光る人工芝と夜露だけではなく、
初めて開催される大会に対する選手達の希望や、大会主催者の熱い気持ちと言うか、


全ての人たちがこの大会を心待ちにしていたワクワク感のようなものが会場に満ち溢れていて、我々もそこに乗せてもらったような感覚がありました。


出場チームはわずかに6チームの大会でしたが、怪我人もなく、閉会式のプレゼント贈呈式も大いに盛り上がっていただきクラッカー、横浜FCのお役目は無事に果たせたのかな、とニコニコ

と同時に、この大会が持つ「可能性」について、なんとなく片鱗が見え隠れしているのが見えた、記念すべき第一回でもありました。


※余談ですが、この日の記録写真カメラが、ただの1枚もクラブに持ち合わせていないことが、今でも悔やまれます・・・






☆2009年☆
「日本初」の試み!


前年の第一回を受けて、この年はぽるとカップが一気に変革と成長を見せた一年でした。


1.横浜熱闘倶楽部の助成事業に認定
2.大会主催者名を横浜FCが拝受
3.横浜FCホームゲームとの連動


第一回の協力に対する大会主催者・参加者の感想や、当日の様子を伝え聞き、

今後のこの大会の発展の可能性をいち早く見抜き、その社会貢献性の高さ、事業の発展性を説いて横浜熱闘倶楽部 からの支援を引き出す働きかけを起こしたのは、

他でもない、当時のFC担当である「きゃ」(現・クラブメンバー担当)でした。


民間企業の協賛ではなく、行政も絡んだ機関からの助成を受けることで得られるメリットとして、

・当座の比較的安定的な運営費用の確保
・主催者自身の主体性が維持される(目的や意思がブレない)
・大会への信頼感(ブランド)アップ

が挙げられます。


と同時に、上記のメリットをより向上させることと、実行委員会メンバーの皆さまがより身軽に大会運営に携われるように、横浜FCエンブレムFCが「主催」名義を預からせていただく調整をいたしました。
(実行委員会の皆さまは、通常業務の傍ら、自分の時間を使って、まさに手弁当で大会運営にあたっています)



それを受けて、大会の正式名称が『横浜FCヨコハマぽるとカップ』となり、現在の原型が出来ました。
同時に、すでに会場確保の都合で日程が決定していた秋の本大会は、その最終試合である3位決定戦と決勝戦を、日産スタジアムで開催される横浜FCのホームゲームの前座試合サッカーとして実施することが決まりました。


「よし、これでと並んで、関東では初めてJリーグクラブとの共同で大々的に大会が開催できるぞー!」


と意気込む一方で、いざ横浜FCが大会を主催する段になって、


果たして横浜FCの手に負えるのか?
クラブ内でどれだけの協力を得る必要があるのか?


という不安を払拭することと、実行委員会との連携をより確実にするために、8月に「プレ大会」を開催しました。

このプレ大会は、当時東戸塚に所在していた横浜FC・LEOCトレーニングセンター天然芝グラウンドで実施され、籔田光教コーチ(当時・スクールコーチ、現・ジュニアユースコーチ)の協力の下、本大会をイメージした大会進行を試し、運営についての検証を行いました。


8月の酷暑晴れの中開催された大会では、秋の大会もみじに向けて心と体のコンディションを高めてアップいこうとする選手達の姿に触れ、大会への本気度が高まっていく様子が感じられたのも、頼もしい収穫でした。


・・・


このプレ大会での経験を元に開催された

「横浜FCヨコハマぽるとカップ2009」



実行委員会のコネクションからの勧誘、そしてクラブからの大会参加の告知もあわせ、小春日和の日産フィールド小机競技場に集まったのは、なんと14!!(厳密には、スタッフチームも合わせて15チームで大会は行われました)

大会を運営することで頭が一杯だった委員会メンバーは、自分達が思いもしなかった大きな反響に、ここでも新鮮な驚きえっに包まれたのを覚えています。



「だからこそ、成功させたい。」
戸塚区の作業所の一室を利用した深夜星空に及ぶ打合せや、直前までそれぞれの仕事の傍ら準備を進めたことなど、正直大変な作業の連続でしたが、
この時の思いと経験が、今の大会運営の礎と実行委員会メンバーとの絆の基本となっていることは、間違いありません。



また、3位決定戦と決勝戦をJリーグの公式戦のイベントとして開催するということで、大阪を始めとした精神障がい者フットサルの世界では大きな感動として波紋を呼んだそうです。

実は精神障がい者フットサルとJリーグクラブのここまでの深い関わりは、当時全国どこにもなく、フットサルを拠り所に努力を重ねるフットサルプレイヤー、そして各地で精神障がい者フットサルを主催する関係者にとって、ひとつの目指すべきランドマークとして、大きな目標になっていった、とあとから耳にしました。
横浜FCオフィシャルブログ「結戦 F!Diary」Poewred by Ameba-朝日新聞に掲載

本大会の模様は、朝日新聞の地域面の話題にもなりました。

※クリックして、記事の内容も目を通してみてください。


?FCとしても、小さいクラブながら、どこまで参加者にとってベストな環境を用意することが出来るか、FCらしいオリジナリティーとは何かを考えた結果として、
この年に大きな一歩を踏み出せたことが、「横浜FCだからこそ!」と胸を張って言えることだと自負しています。


ちなみにこの年の優勝チームは、横浜市港南区の日野中央高等特別支援学校チーム。
「せっかく作った優勝カップが、いきなりホームタウンから流出しないか汗と心配しながら開催された大会で、無事に地元チームが優勝を飾り、スタッフ一同、ホッと胸を撫で下ろしたのは今だから話せるエピソードですヒミツ



さて、次の2010年は・・・と行こうとしたら、だいぶ長くなってしまいましたね(汗)


来週、再来週は、
2010年、2011年の歩み、
2011年本大会間近に寄せて、
という内容で続けてみたいと思います横浜FC


どうぞ皆さま、これに懲りずに粘り強く、
最後までお付き合いいただけたら幸いです。

ホームタウン担当メガネ・A