渋沢栄一像
 
日本は2024年からの新紙幣一万円札の肖像画になることで、先週の日曜日の夜からNHK大河ドラマで渋沢栄一の人生を描く内容で「晴天を衝け」が始まりました。
私の本籍地は埼玉県深谷市で、成澤家の寺も駅近くの深谷上杉家の居城、深谷城址公園に隣接した真言宗金胎寺にあります。
 
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深谷にて7
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私は小さな頃から法事で深谷を毎年に訪れていました。今現在でも、何か重要な仕事を行う時などには訪れて先祖に参詣しています。
 
深谷市には有名な名士が2人いて、1人は鎌倉幕府創建の立役者で鎌倉武士の鑑といわれた「畠山重忠」
 
そしてもう1人が、駅前に「深谷の名士 渋沢栄一」の像が立ち、現在の深谷駅は東京駅のように非常に立派な建物になっています。
 
深谷にて1
亡き私の父の名は「成澤建一」といい、「澤」と「一」が同じです。
 
郷里の名士の渋沢栄一翁を父はとても尊敬していました。今から思えば面白いことに、渋沢栄一は渋澤栄一であり、私の父もそれにちなんで東京に出て来てから「成沢建一」と称していました。
 
渋沢栄一は、漢学教養の深いことでも知られ「論語と算盤」を重視して一大事業を成し遂げて来ました。
 
ビジネス哲学のマネジメントで有名なピーター・ドラッカーは渋沢栄一の影響を大きく受けていたことも知られています。
 
私も子供の頃は父からの要請もあって剣道少年でありました。1978年頃から大きく社会的な中国武術・カンフー映画ブームになり始めました。そして10歳頃から私は中国武術に憧れ始め、中学生になった13歳から中国武術の道に入り、今では52歳になり、来年は中国武術修養40年になります。
 
振り返れば、小学6年生の時に学校の国語の教科書に「論語」が出て、私はとても胸を打たれて、孔子に関心を持ちました。
 
そして後々に、中国武術の道に進めば進むほど、中国老師の皆様との関係でも中国古典の思想哲学の修養がとても重要であることを知り、勉学を続けて来ました。
 
私が今でも深く続く本場中国大陸の武術界で、可愛がってもらえたことも、それも一つの理由だったと思います。

こういうこともあって今回から、私の大事にしている論語の文言を紹介して参ります。
 
やはり、最初は一番影響を受けた、
 
「子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」
 
「自分は十五才で学問を志し、三十才で自立しき、四十才になり迷うことをしなくなった。五十才で天命をわきまえることを知り、六十才で人々のことばが素直に耳を傾け、よく聞くことがわかるようになり、七十才になると思いのままにふるまって生きても人道から外れるようなことはなくなった)」と「論語・為政 第二」にあります。
 
これは後の南宋時代、朱熹(朱子)に受け継がれた、
 
「少年老い易く学成り難し」
 
意味は「若いうちはまだ先があると思って勉強に必死になれないが、すぐに年月が過ぎて年をとり、何も学べないで終わってしまう、だから若いうちから勉学に励まなければならない」という意味のことわざに繋がっていきます。
 
日本の武士道の思想は、この朱熹の朱子学になっていくので、私は縁があったと思います。
 
私は東京都狛江市の生まれで、活動テリトリーは、すぐ隣接していた調布、府中、多摩川を越えた川崎市の登戸などでした。
 
中国武術活動は従って、東京都でした。一時期は「公益性社団法人 日本武術太極拳連盟」の全日本大会で名を上げることが出来て、選手を止めるよう促され、初代の強化コーチになり後進に指導をしていました。それから「東京都武術太極拳連盟」の初代評議員を務め、全日本大会の運営を担当しました。

1999年で30歳で北京遠征の時に飛行機に乗っている間に論語を読もうと思い、読んでいた時に「為政 第二」にさしかかり「三十にして立つ」のところで想い考え、よし、そうだ30歳にして中国武術文化普及事業へと行う為に、立とうと決意し、東京都を離れ、当時のスポーツクラブ指導の仕事で通勤で来ていた横浜市港北区に引っ越しました。

ちょうど20年前の2001年2月の末日で、当時に唯一会社員として仕事をしていた「オアフクラブ」が倒産してしまいました。
 
私の担当は綱島のクラブでしたが、一晩でもう仕事がなくなり、大変でした。
 
ボランティア的な武術太極拳のアマチュア競技関連活動を全部辞めて、すぐに、なんとかしなければと、次の契約先を探し、同時に倒産してしまったクラブ会員さんの為に練習場を探し「横浜武術院」を創設しました。
 
今年は横浜武術院創設20周年の年でもあります。
 
そして今「五十にして天命を知る」は、その意味が解ります。
 
そして次の「六十にして耳順う」を目指して頑張っているところです。

日本国内での知られるところでは「五十にして天命を知る」までのところが多いようですが、次の「六十にして耳順う」そして「七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」が知られていないようです。
 
そう思うと、このコロナウィルス感染症問題も、来週で関東地方で千葉県市川市のスポーツクラブの会員さんの初感染が始まってから、ちょうど1周年になります。
 
あの2020年2月頃も、ちょうど今退任された森喜朗さんがやたらとテレビに出始めて「東京オリンピックは、どうするか」で揉め初めて、結果は退任で決着が着きました。
 
謂わば「六十にして耳順えず」 そして「七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えまくる」
 
そんな結末を元首相経験者の人が教訓を教えてくれたことが興味深いです。
 
そして、同じく論語に、
 
「過ちて改めざる 是を過ちと謂う」
 
「人が過ちを犯すことはやむを得ないが、過ちと気づいたらすぐに改めるべきで、改めようとしないことこそ真の過ちである」
 
やはり、人間は失敗をたくさん起こしてしまうものですが、心素直に倫理道徳の道を歩むことが、とても大事です。
 
今年は論語からも、いろいろと勉学をしながら行って参ります。
 
宜しくお願い致します。