鷺


予測通り、今年「2016年」は私達にとっては「一つの勝負と変革の年」と位置付けていました。

7月を迎え、世界中も日本国内も予想した通りに、普通世間一般は「予測不能」な雰囲気に巻き込まれて来ました。

「一番高い手で、チャンスに勝利するギャンブラー」的感覚には、大いに楽しめる年になってきました。

「一番高い手を怖れて、チャンスに勝利できない不安に苛まれるギャンブラー」的感覚には、大いに楽しめない年なのかも知れません。

「実力勝負」「真剣勝負」「ハッタリ、イカサマは通じない」

「鎌倉幕府」建立にもゆかりある、伝統的東国武士団の末裔の私にとっては、今年はワクワクする年になっています。


今現在、現代日本社会人 誰しも、毎日に目にする報道記事、自分で調べる「知りたい記事」

調べながら、これはどうなんだろ!?

これまた、どうなんだろ!?

「どれは、どっち!?」

その連続が、現代日本社会の「真実」です。

しかしながら直感的に私は、迷わない気質を持っていて「いつも決めるところは決めてやってきた」経験は宝です。


ここ数年の、明治時代から導入の始まって、戦後71年めの西洋式資本主義社会の限界を感じた「現代日本社会」にある多くの問題を思う中で、感じたことは、

「本音を言う生き方」か「本音を言わない生き方」か、

どちらかで、今後のすべては決まっていくように感じています。


「本音を言う生き方」を選べば、

実は、得をするよりは、むしろ「損」をする、あるいは「とばっちり」を食らう。

それが普通だったと思います。

誰もが知っている「正直者は馬鹿をみる」という文言が象徴していると思います。


社会環境のシステム的に、学歴の有無とは実は関係なしに、

目の前に置かれた「スローガン」へと圧倒的多数は、

利己的な得をするだけのために考えるように誘われ、そうした行動をする人間の数が多くなり、

彼等たちと一緒に従えば、必ずといっていいほどどちらかといえば不運への道筋へ行くことになる、のを武術を始めた中学生ぐらいから、常に心身の感覚が冴えていくために直感で「気付く」ようになりました。

もっと本音をいうと、不運にさせられる道を奨励している、と感じました。

「ビジネス」にそうした意識が向かえば、環境的に束縛され、経済的恩恵があるようにみえて、実は経済的負担が大きくなり、

自由があるようで不自由になります(あるいは条件付きの中での自由)


2年前の2014年から、最先端のスーパー・コンピューターの分析結果から判明した「医科学」で今あちらこちらで、ようやく知らされるようになった、

「ダイエット」と「医学」は数年前まで癒着していて、

世の中の健康不安は実は「運動不足」と「食事の質が問題」であっただけで、

多くの人々は「健康になりたい」と、考えて、望んで、

やってもやっても、目指した方向へ行くのではなく、何かしら違った方向へ行っているのだけれど、誰も「まさか」と思っても最終的には気付けないのが一般的です。

(※思うと日本にあった「武術活動界」もそう感じます・・・上達したいと考えて、やってもやっても目標に到達しない)


実は日本国内の政治家や企業家、あるいは誰でもそういった影響を受けている考え方に共通するのは、

ある「一部分」だけが損しないように、できれば「得」を得られるように画策がしてあり、

プロセス的には「得をしているような感じ」を味わっているようだけれど、何かした実感がなく、

最終結果に近付くと「得はない、むしろくたびれ損か」もういいや。

そういうオチになるものは多く共通しています。


システム的にそうなっていますから、

何でも具体的にはっきりしないと「問題」が判明せず、結果は解決しないものです。


そして、すべては共通していて、そうしたシステムを理解し、

何でも具体的にはっきりすると「問題」が明確になると、陰で得をするための「既得権益」に執着する人間たちの集団には不都合になることで、

そのシステムを守るためには、ありとあらゆる手立てを打ってきます。

そこで打たれた手立てに載せられたら、そこで彼等は陰ながら「ああよかった」

そんなことを繰り返しているのも普通に沢山あります。

ですから「本音をいわない生き方」を賢明だと、多くが考えるようになっていくようです。


「三つ子の魂、百まで」

小さな子供の頃に亡き父から、そう教えられて私は「本音を言う」生き方で、ずっとやって来ました。

そして「本音を言わない」生き方をしている人達を、ずっと見て来て、共通していたのは、

大体が「抽象的」で「曖昧」だということでした。


「中国武術」の道を往くようになれば、必ず自らの技芸の向上の道を歩まねばならず、

それは「山登り」に似ています。

「平坦な道」を往くような感じにはならないと思います。

「高み」を知らなければ「低さ」が解らず、「高み」を知ると更なる「高み」があることを知り、

学びや成長の人生を往くようになると思います。


「高み」を知らない人で「低さ」の中だけで生きている人に、 

「詐欺師」的な人は多いようです。

あるいは「嘘つき」とは言わなくとも、真実からは遠く、

平坦な道を往くだけで、「平坦」を平坦とは知らず、判らず「高み」には興味なく、

傾向として、自分の平坦な道を「高み」と思い込むようです。

平坦な道を「それはただの平坦な道だ」と言われる本音は嫌いで、それは「本当だね」と言ってくれる、

「本音を言わない」門外漢同士は気が合うようです。


ふと達観して、この日本社会の環境を見てみれば、簡単に判明できるはずですが、

判明できない人が多く、凄いと思うことは、

長い時間が経って「気付いた時は」自分自身の身体の具合が悪くなった時で、

それは「運動不足」と「食事の問題」が原因で、あることも「気付かず」

まるでそれは宮沢賢治の「注文の多い料理店」でおかしいな、とも気付かずで、

逃げられずに食べられてしまう人のようです。

(※武術人士であったら、それは有り得ないことで、そうだったら、それはやはり詐欺師的です)


損するようで損しない「本音を言う生き方」か、

得するようで得しない「本音を言わない生き方」か。

二者択一のようです・・・