
今年は2016年、横浜に出て来てから17年になりました。
「横浜は3日住めば誰でもハマっ子」
という言葉もあるそうで、東京に一番近い地方で国際都市の一面があります。
そして横浜と上海も友好都市でもあるので、上海武術界と縁の深い私にとっては、
とてもいい環境にあります。
自分の武術人生でも34年が経ちました。
思えば今年2016年は、1978年の日中平和友好条約の締結から、38年なので、
日本に太極拳がもたらされたのは、楊式簡化太極拳24式を初めにして、
32式剣や48式太極拳、それから伝統楊式太極拳や伝統陳式太極拳が、導入されていきました。
私は当時13歳の中学1年生で、いろいろと片っ端から調べては、
当時の日本の都内で有名だったところを訪ねあるいて、
いろいろと体験し、1984年に一番の老舗であった全日本太極拳協会に移籍したことがきっかけで、その推薦から1985年の高校1年生の16歳で春休みを全部使って上海へ初めて訪れ、
本場の中国武術を学びました、それからの学びはずっと絶えることなく継続して31年続いています。
たまに日本国内にある武術事情を思うことがありますが、
私は13歳の時に20歳だった方、30歳だった方、
自分は7歳から伝統の剣道を6年間行った感覚から武術へ入りました。
その身体感覚の大きな違いで、今までにあった日本の武術活動界とのギャップを感じることも多々ありました・・・
ちょうど30年前の1986年から個人ビザが初めて降りることになり、
同じ同門の師兄弟渡辺成人さんと2人だけで何も迎えのない、当時の上海~安徽省~山東省~上海と列車で移動し、
通訳も添乗員も何もなく日常会話も自分で学んだ中国語だけを駆使して、上海と安徽省で武術隊で訓練を受けるようになりました。
渡辺さんは1987年の9月から上海復旦大学へ長期留学をすることになりました。
私は日本で東洋大学へ進学し、1987年は中国でお世話になった徐文忠老師、楊承冰老師の両老師が1年半の間長期滞在されていて、
日本で一緒に毎日共同生活をしながら武術を学ぶことができました。
1989年に1ヵ月半春休みをして、安徽省武術隊と復旦大学武術隊で学びました。
もうこの時は大学で第2外国語で中国語を学んだので、何時でも1人で、
中国大陸を自在に行き来できるようになりました。
ですから私にとって中国は本当に身近な存在であり、
中国なしに、私の存在は在り得ないこともあり深い感謝を思っています。
そして私にとっての中国武術は食事をするのと全く同じ感覚で、
本場の中国武術界の皆さんと同じ感覚で、
日本に居る時も、独特のペースを作り上げ、いつも武術は一緒の生活をこれまでにやってきました。
こうして長く時間が過ぎて、自分の体内に常に存在する武術:武功は本当に宝物だと思っています。
そしてここ数年で進化した、最新医科学を知るようになると、
中国武術運動の道理や合理性、そうしたものを、より強く実感し、
長くやって来た技芸は、最新医科学から求められているものと全部が全部合致していて、
少年時代からの直感が本当に正しかったことを不思議に感じています。
体の構造
そして2014年から、また上海で学び練功し始めた龍身蛇形太極拳は、私にとても拳理があっていて、
それから私の陳式太極拳も馬王堆導引術も伝統気功:華侘五禽戯にも、すべて相乗効果が出て、
この2年間で自分は新しいステージへ入った実感があります。
そして若者達も成長して上達し、
「私の若い頃」を思い出し、当時の徐文忠老師、楊承冰老師の視点が何かしら今判る気がします。
こうして時間が経ち、武術に全身全霊を打ち込んでやって来て本当に良かったと思います。
ふと世の中を見やれば、1980年代は経済的に日本は良かったのですが、
1990年代ぐらいから不景気と言い出し、2000年代にちょっとは良くなったかな、
という報道が流れてから、またリーマン・ショックがやってきて、
今でも右往左往しているのを達観して見ています。
経済ですから、私も影響を受けたことはありますが、
「お金、お金」と時間と労力をかけて全体で世の中が勤しんで、
その間、私はよく「世の中から取り残された」ように感じていましたが、
この2年間で、また新しく始まった武術人生のステージの可能性や、
希望を思うと、世の中から取り残されていたのではなく、興味がこちらにもなかっただけで、
長い時間をかけて身に付いた功夫に誇りを感じています。
これからも皆さんの健康のために、あるいは今、武術の夢に希望を思う皆さんのために、
そしてこれからの自分の感じる「武術の夢」のために、
尽力したいと思います。
努力は嘘を付かない、人も何も裏切らない、そう実感しています。