
先週、今週の水曜日に鎌倉を歩いて来ました。
鎌倉の山歩きのコースは、さほどきつくはなく、気分転換のリフレッシュには、とてもいい場所です。
1192年に日本初の武家政権の鎌倉幕府を建て、以後江戸時代の終わる1867年までの、
675年間続いた征夷大将軍が最高権力者になっていた時代を創り、
これは関東人にとっては誇り高く感じられるものです。
先日は、天気も良く静かな山道を歩きながら、いろいろと今までの自分のやって来た人生でのプロセスの数々を何となく思い出しました。
山道を歩くと、自然の中に眼を向け、
気持ちの中に大きな安堵感が生まれ、自分も大らかな大自然の一部として心地良く生きている実感が得られます。
そして鎌倉時代にあった歴史的な出来事の数々を思い出し、
現地で想いを馳せるうちに、そこから世の中の処世術での様々なヒントをもらえるようになります。
その時、ふっと感じたのは、日本の社会の中でよくある複雑な人間関係や、
利権争いで非情で理不尽なことが繰り返されているのは、
今現在に始まったことではなく、
鎌倉時代には、もう既に普通にたくさん日常茶飯事であった事実を確認したことでした。
そして、自分が武術界に入り、ここまで徹底してやって来たこととはまったく無縁ではなく、
日本には、男性社会にはどこかしら常に下克上意識感覚があって、
何かしら、うまくいったりした後には 常に狙われる傾向があることに気付きました。
今までに日本国内にあった太極拳組織でも、別団体との対立や敵対意識、
そして同じ組織内でも、己れの存在位置ポジションを得るための足の引っ張り合いをなど多々行い、
理不尽で卑怯な手を使ってでも、そうした自分のメリットの為には手段を選ばない人間は、
とにかくたくさんいました。
おそらく「そういうものだ」と思っている人間は普通で、
人の善い人間は、騙されて損をしまうようなことが珍しくないことに気付きました。
自分は、少年時代から直感でそれらを感じ、自分はどうしたら何時までも安心・安泰でいられるか、
そんなことを感じていたことを思い出しました。
こうして考えると「伝統関東人」の気質は、土地柄に真冬の厳しい寒さと真夏の灼熱の熱さの中で、鍛えられ、
当然に鎌倉武将がすべての規範になることで武道熱も盛んで、
関東地方は、何処からでも見える富士山を最も聖なる山として、
海や川の自然を愛することで、土着愛を大事にする人間になっていくことでした。
私自身も当然、その1人であり、
こうしたかの歴史ある関東の地で強く生き抜くには徹底に徹底して、物事を成し遂げ、
他の人に追随を許さないところまでレベルを上げなければならない歴史的プロセスから来る必然性を確認しました。
一昨日は歩きながら改めて「そうだったんだ!」と直感でひらめいたのでした。
日本国内では、流派スタイルでは2番めにあたる楊式太極拳が先にもたらされ、
1980年ぐらいに中国全土全体で広められた、健康体操的な入門編の楊式簡化24式太極拳が日本にも普及が始まり、
考え方の中で、それが「太極拳」のすべての標準なのだと思い込んでしまっている日本人太極拳愛好者が多い現実があって普及方法での大きなミスがあるのを思います。
そして、そのミスが気付かないのが それまた主流なのだという旧型思考での「現代日本らしい」象徴も感じます。
日本には、その後すぐに元祖太極拳の陳式太極拳(※元々は太極拳は陳家溝が本家本元であり、楊露禅が新たに「楊」の「式」で楊式なので、陳式の「式」の呼称ではなく太極拳なのです)がより本格太極拳の体得を目指す方々には当然に好まれるようになり、
この時点で先に日本へ入ったけれど2番目のスタイル楊式派と、後に日本へ入った元祖陳式派の対立図式がもう既に1980年代の半ばには始まっていました。
私は、こうした流派の争いには興味なく、武術拳種の優位性をアピールするようなものも、
そうした考え方をする方々とは常に距離を置きました、
無駄な時間を浪費するのが嫌いな性格なので、要領よく両方とも体得し、更に孫式太極拳も学び得て行えるようになりました。
そして今現在は、21世紀型での新しい第3の立場を行こうと思い、2014年から上海武術界が新しく推進する総合太極拳の龍身蛇形太極拳を取り入れて自分の練功と普及に力を入れています。
そして鎌倉も多くの寺があって、寺同士での不仲も多くあり、
そして平安時代末期から鎌倉時代にかけて興起した仏教変革の動きを創った鎌倉六仏教の創設にも思いを馳せました。
私の家は真言宗ですが、私個人の思想感覚としては、
「ただひたすら坐禅を組むこと(只管打坐)で悟りにいたることを主眼とし、世俗に交わらずに厳しい修行をおこない、政治権力に接近しないこと」
を説いた曹洞宗の道元と、
「男女の区別や浄・不浄、信心の有無さえ問わず、万人は念仏を唱えれば救われる」
と説いた時宗の一遍上人が方法の質感覚としてでは、一番近い感じがしています。
そして無茶だけれども「辻説法で布教し末法無戒を主張、実践したため、日本仏教における破戒を助長した」日蓮の諸行にも判る気がします。
しかしながら最終的に私が行ったのは弘法大師空海的を目指し、単身単独で一番歴史の長く古く高尚なものを全体・全部を取り込むことを決めて、ひたすら行に打ち込んでやってきました。
そんなことを考えながら、今までの武術生活34年間を想いを振り返り、山道を歩きました。
そして、利権や権力にいつも執着する人間たちのことを考えました。
あるいは、その利権や権力にいつも執着する人間たちの好むものや、生活パターンのことに思いを馳せました。
その時にパッと浮かんだ一文字は、彼等は「無知:知らない」ことなんだ。
と気付きました。
人が困ることを判っていても、それらのアクションを実行する人間たち。
自分のメリットばかりをかき集めている人間に共通するのは、
「自分ばかりのメリットを、無理にでも不自然でもかき集めている姿」が何なのかが見えない人間たち。
周囲から「そう見られていること」にも「気付けない人間」
そして誤魔化してでも、自らを正当化して都合よくアピールすること。
それも「そう見られていること」にも「気付けない人間」
類は友を呼び、互いに正当化していくことが普通と思っていく・・
自分が今までにやってきたこと、振り返れば、
いつも寺社めぐりをしながら、そのご当地、ご当地での人が人を大事にし合う暖かさや、
その土地を、歴史を文化を大事にする人々の優しさが好きでした。
思えば、それが「日本人の心」だと気付きました。

今年の新春、何かしら今までにない感覚があります。
日々、すべては諸行は無常。
しかしながら、いつもささやかなものでもいいから、楽しい喜びがいつも身近に、
快適な心身感覚を練習活動で仲間同士で実感し、
世の中がおかしくても、何が起きたとしても、
己の心身に揺るがない、安堵感があって、
それが、ずっと永続にある、そんな感覚こそが今の現代日本社会の中で、
既に手中にあって皆で大事に出来ている。
そんな武術活動が行えていること、それが無上の喜びに感じています。