
今年も、もう8日間で終わります。
中国往来30周年記念の年と、私が目指していた武術活動の段階の中で実際に大きな確立の出来た一つの節目となり、
何かしら清清しい気持ちがあります。
やはり、こうして他の人達がやらない道(やりたがらない道)を往くことになったのも理由があります。
それは「本場の中国大陸」「本物の中国武術」だけを追い求めて生きて来た自分の武術人生で、
自分が日本で行う武術活動にも、限りなく「本物の中国武術」を、
日本人による、日本人のためのライフワークにあったスタイルに高めたい、という想いは、
ずっとありました。
それは、日本国内で生まれ育った東京地域を拠点にして武術活動を行っていた時に、
当時は縁があった「ある組織システム的スタイル」には、時間が経てば経つほど馴染めなくなりました。
そのシステムのスポーツ競技会や普及スタイルでは、組織と審判員と指導者と選手たちが癒着し、
競技会中でも、審判員をしている指導者から選手へのアドバイスをしたりすることが普通で、
技能検定も同様で、とてもアンフェアな世界でした。
当然、いつも同じ選手が有利になるので、ランキングやポジションはそういう「心付け」システムで決まっていきます。
私もそういったシステムの競技会の中でも「アンフェア」なことは絶対に全く行わず、
本場、中国でのトレーニングが功を奏して何度か良い成績を勝ち取りました。
その後、選手活動の引退を求められ、指導部に入りましたが、
そこに待ち受けていたのは「組織と審判員と指導者と選手たちの癒着」に手を貸すコーチとしての仕事でした。
3年ほど経ち、あまりにも自分の良心にいたたまれずになったので辞めることにしました。
そうすると組織から咎められ、自分の姿勢や考え方を批判されました。
そこで、全部の、その関係の組織とは縁を切り、自分の目指す道へと進むことになり、現在に至っています・・・
~閑話休題~
実は、昨日から今朝までの夢の中で「そのこと」や「彼等」が出て来て、朝から不愉快な気持ちになりました。
今日は休日だったのですが、天気は生憎の空模様。
でも、何かしら自然の水の香りある清浄で、きれいな空気を吸いたい・・
そんなことを思いました。
そこで、ふと思い浮かんだのが、尊敬する武将「畠山重忠の終焉の地」のある二俣川地域でした。
鎌倉時代の偉大な武将「畠山重忠」は私の本籍がある埼玉県深谷市の出身で、私の父も尊敬していました。
当然、私もゆかりある身として「畠山重忠」を尊敬するようになりました。
思ったが吉日、準備をして出掛けました。
横浜はとても快適な地域で、私の今の地元は鶴見川流域のある港北区ですが、
電車ですぐ近くの中心地の西区から、旭区へ出れば水と緑豊かな清清しい地域があり、
横浜は、港や海、川、山と恵まれて本当に素敵な土地に嬉しく感じます・・


畠山 重忠
畠山 重忠(はたけやま しげただ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。
源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍。知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。
しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて子とともに討たれ(畠山重忠の乱)、子孫は名字を変えた。館は、鎌倉筋替橋の東南。
存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。
畠山重忠の乱
畠山重忠の乱(はたけやましげただのらん)は、鎌倉時代初期の元久2年6月22日(1205年7月10日)、
武蔵国二俣川(現神奈川県横浜市旭区保土ケ谷区)において、武蔵国の有力御家人・畠山重忠が武蔵掌握を図る北条時政の策謀により、北条義時率いる大軍に攻められて滅ぼされた事件。鎌倉幕府内部の政争で北条氏による有力御家人排斥の一つ。
久しぶりに訪れた「畠山重忠の終焉の地」
手を合わせて、心静かに祈り、この地域で有名な「畠山重忠」のゆかりあるコースを散策しました。
散策しながらも、今までの「思い出」がいくつかよぎりました。
咄嗟に直感で浮かんだのは「今現在でも、日本は昔と変わっていない」
そんなことを直感しました。
「畠山重忠の終焉の地」でゆかりある地を巡り歩き、感じたのは今も尚残る伝説の土地。
「日本人の心」
しかしながら、何時になく、日本というこの国や権力者の考え方、
利権だけに意識の向う人間達・・
畠山重忠の人生をかけて残した「義:人の道・生き方」「仁:思い遣り」「勇:いさましさ」
に励ましを頂いたように感じました。
「感謝!」



