鷺

今年2016年も、少しずつ終わりへ近付いていきます。

この1年間を振り返って、感慨深く感じるものも沢山あった1年でした。

6歳から剣道を始め、13歳で中国武術界へ入り、20代後半から道家功法の養生を学び、ひたすら実践し研究し、

修得という文言の示す業に打ち込み、気付くと自然に辿り着いた世界の住人になっていました。

人は様々な表現で現すけれども、

私の所感では、やはり「道」が相応しいと感じています。

今年もいろいろなことがありましたが、やはりとても印象的なのは11月に来日された、

安徽省亳州市、伝統華侘五禽戯58代掌門人の周金鐘老師と、私より若い59代伝承者の皆さんの来日で京都府京丹後市での一緒に五禽戯の宣伝普及の活動を行った出来事でした。


歴史長き安徽省亳州市の地は、殷の都で3700年の歴史を持つ街で、私は2007年に1回、2009年の2回訪問し、

記念すべき第1回めは日本考古学財団理事長の熊田節朗さんを団長に訪問し、それからもう今は8年が経ちました。

そして邪馬台国の卑弥呼の時代以前に、亳州の地へ曹操の祖父、曹騰の時代に来訪した倭人の記録があり、

当時の倭王、帥升の使者と思われる人物が中国のこの地へやって来たということが記された石碑のある古墳の場所へ案内されて驚きました。

「※帥升(すいしょう、生没年不詳)は、弥生時代中期・後期の倭国(まだ統一国家ではないクニの一つ)の有力な王と推測される。西暦107年に後漢に朝貢した。日本史上、外国史書に名の残る最初の人物」

このような歴史ロマンを感じながら、それから安徽省亳州市伝統華侘五禽戯協会の皆様と懇意になり、今年は亳州の皆さんの初来日の中で活動をご一緒できた不思議な縁の糸を感じました。

この亳州の地は老荘思想で知られた「老子」「荘子」そして「曹操」と「華侘」を輩出しました。

2007年には伝統華侘五禽戯第57代、薫文換老師がまだご存命中に学び、

2009年の9月に3回目の訪問では58代掌門人の周金鐘老師から直接の個人指導を賜り、私にとって知りたかった伝統気功、華侘五禽戯、そして古代導引術における吐納導引の功法と理論を学ぶことができました。

その中で、老師の皆さんから教わったことで大事なことは、

「養生之道 ”人法地 地法天 天法道 道法自然”」

私流に訳せば:

「養生之道:養い・生きること、それが道であり、”人は「地の法」のはたらきに従い 地は「天の法」のはたらきに従い 天は「道の法」のはたらきに従う、そこで道は「自から然る法」のはたらきに従う”」

というものでした。

それからは常に「”人法地 地法天 天法道 道法自然”」の文言に照らし合わせて、

感じたものを意識するようになりました。


そして直感で理解できたことの中で、

「現代日本社会」の世の中には不自然や不適切なものは多過ぎることがあり、

それが普通に、なってしまっている実情でした。

そして人々は、だからこそといって「不自然や不適切をやって良い」という意味に捉えている人間達が非常に多くなっていることでした。

それは以前にもあった耐震偽装マンション販売、今年の秋の第2弾、

捏造ダイエット・健康法の報道、詐欺的医療問題、様々なスポーツ界の不祥事などなどで、

そして元を辿れば、敗戦後の日本の人口は8000万人だったのを70年間で1.5倍の1億2700万人まで増やし、

人口問題と教育問題が起り、現代日本社会の問題の根幹にあるすべてと連動している事実です。


そうした世の中を見る中で、

私の人生感覚で、それらを「普通」とは見なさず、不自然であり、

私は、むしろ逆に正しき「自然」をすべてに重視する。

そういう感覚でした。

養生の道の奥義を知った時に、それは自然体で受け入れる自分がありました。


そして欧米化していく日本の中でも、人々は「不自然」が「自然」となっていく中で、

今年で感じたことの中で明確になったことは、


「自然」は最終的には完璧になっていく・・という事実でした。


今冬空に広がる星の配列を感じたり、雪の結晶を顕微鏡で見てみたり、

生き物の世界でも小さな虫の顔や身体の構造を見て判る通りです。

人間は生まれた時には、既に完璧に整っており、

しかしながらも「大脳」が発達したことで、

人によっては「不自然」を「自然」とするような生活習慣や考え方を「是」として起こすようになっていったと思います。

私は何時しか、

「自然は自然であり、不自然は不自然である」ということに対して、

やはり重要視するようになっていきました。


ここ数年間は世界中のシステムの変化が起り、私たちを取り巻く環境や、

日々目にする報道の数々を見ています。


その中でも世の人々が迷い苦しむ社会環境は当然に不自然であり、

如何に人々は、生きていくに有意義な社会環境を自然とするのを目指すなら、

「自然は自然であり、不自然は不自然である」の実践しかないことに気付きます。


私が想うに芸術は「如何に無駄をなくし、必要であるものだけを残す」

逆説的な表現をすると、

「無駄を感じ、不必要なものの多いもの」は芸術とはいえないと思います。


そういったシビアな感覚かも知れませんが、そういうものも真実と思います。


そして必ず「不自然」は自ずからの「不自然」での結果の道へと進むように感じています。

冬の空気は澄んで純度が高く、そのために遠くまで見渡せる。
 

そうして「自然」は最終的には完璧になっていく・・

人間も人の世に揉まれながらも、完璧に近付いていく・・

時間は永遠で、その中で人は、何を「自然」としていくか・・

そんなことを思います。


「養生之道 ”人法地 地法天 天法道 道法自然”」