六本木1丁目

昨年から今年までのテーマは「中国との交流での往来開始30周年記念」で頑張ってきました。

それは、やはり私にとって中国大陸には偉大な師と兄弟弟子があって私自身の人生の中で大きな影響を受け、学び・交流してきた中国大陸との縁は深く、ここ数年の間の相互間での政財界の摩擦から起こされた出来事が発端で、その後に国民同士で意味のない敵対意識を持たされるような事象の数々にに心をずっと痛めていました。

そういうこともあっての恩返しもあり、昨年から今年までを交流に力を入れて行ってきました。

今年この12月に来て、IMF国際通貨基金から、来年の10月から人民元が国際的な主要通貨になる、発表があり、ようやく新時代の国際金融界での長き政治経済界での闘争の決着がついたことを受けて、それらに関することで起きた日中間であった揉め事もこれからは安定に向っていくことが予測出来、私個人的にも様々な面での安堵感を感じられます。

(※現在5位、英国ポンド、4位、日本円、3位、中国人民元、2位、欧州ユーロ、1位、米国ドル。最近まで騒がれていたユーロ危機で知られるように実質は2位スタート)

武術が縁で始まった文化交流が時間が経つうちに様々な面で、政財界から起る影響も交流活動に受けるようになり、いろいろと大変でしたが、もうこれからはひと安心できると思います。

(※中国の国技、中国武術界は中国政府との関連機関なので、相互政府間で大きな政治問題が起ると交流活動なども停滞をされてしまい、何かとすべての民意へのイメージダウンにもなって交流活動にも悪影響を受けます・・)

 「FTAで経済連携加速を」 日中韓賢人会議が閉幕 

日本では「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」的になり、私にまで何かにつけて大きな「とばっちり」を受け続け、日本でも中国でもどちらでも狭間にあってとにかく本当に苦労しました。

そんな、こんなでずっとこの5~6年は大変だったので、来年2016年はもっと気楽にやりたいこともあり、自分がフィットネス業界へ入り、レッスン・プロになって「20周年記念」の年になります。

そういうこともあって来年はシンプルに自分の仕事での「フィットネス界活動20周年」をテーマに頑張ろう、と思っています。

自分は20年前の1996年になって大学を卒業してからも、定職に就かずに空き時間をシフトに入れられるホテルマンのアルバイトをして、都合よく自分の武術活動ばかりやっていました。

「若者」にありがちな「想い上がり」が自分にはあり「仕事は向こうからやってくるはず」そんなことをいつも夢見ては、当時のしがない処世の日々を送っていました。

そして文学にも、とても関心があったので、そうした自分の行動に家族から咎められても、夏目漱石の作品「それから」の主人公、代助を真似て「僕は高等遊民だ」とか言って顰蹙をかっていました(笑)

日本国内の武術競技界では優勝経験での好成績を既にいくつか取っていたこともあり、知人でフィットネス業界でインストラクター派遣会社の社長さんと部長さんから食事に誘われ、そこで「是非とも一緒に仕事をしよう」と声をかけられ、そのまま入社しました(笑)

当時はスポーツクラブはあまりなく、有名な駅の近くかホテルの隣接地域とかで、入会金も高くて水泳とジムが主流で、集団プログラム・インストラクターはエアロビック・インストラクターの養成コースと連動して、認定を受けると登録される制度で派遣業務の中にありました。

太極拳や気功は全くインストラクターがいないので、そこで私が第1号で乗り込むインストラクターとなって「トリム千歳船橋」「トリム馬橋」「ジェクサー四谷」「ティップネス下北沢」「ニッセイ・エグザス五反田」「ニッセイ・エグザス武蔵野」の6ヶ所で太極拳のクラスを担当することになり、毎日あっちこっちへ移動してレッスンを行っていました。

当時からずっと選手兼指導者を行っていたので、演武エキシビジョンや体験講習会はしょっちょうやっていて、自分は即座に現場に出てのレッスンを行うことができました。

そうしたこともあり、当時はすぐにイベントでエキシビジョンや講習会へ駆り出され、即戦力で単独でもバンバン動き頑張りました。

「仕事は結果の後に評価あり、結果が全て」を現場で学び理解しました。

(※これは競技会と同じです。獲得メダルは金より上はなく、勝てば官軍。人は敗者に同情するが、必ず勝者に着いていく・・ 私が競技会で「金メダル:1位」を重視する理由はここにあります。あるいは「金」を獲った人間でのその瞬間での心意気は、やはり「銀」との感覚とは全く異なります・・)

そうするうちに、いつもフィットネス関係者から依頼を受けて、太極拳を取り扱うイベントや体験レッスンと新規講座の立ち上げ係りのような仕事になり、あちこちで声をかけられるようになりました。

当時は東京の府中市に住んでいて、一番遠い「トリム馬橋」は千葉県の常磐線で松戸の先で、通勤するのが1時間半90分で、レッスンは1時間60分で終わり、よく判らない仕事もありました(笑)

しかしながら毎日の移動途中でレッスン内容を考えたり、時折空気のいいところを見つけたら道草してみたり、外食でのレストラン選びとかも楽しくて仕事は自分の性格にもあっていて面白かったです。

会社の本社は表参道にあり、とてもおしゃれなオフィスでした。

自分はクラブ周りでのレッスン担当が毎日の仕事なので、本社へは週に数回移動途中に顔を出す程度でした。

もう3年ほど経つと、こうした仕事もかなり慣れて、何か新しい展開をと考えている時期で、それがある月になって給料日前に何の前触れもなく、一通の封筒が来て「会社の破綻手続き」とあり、弁護士事務所に全部の連絡をとなり、

給与の振込みがなく、会社に電話したら繋がらなくなっていて、結局弁護士事務所に連絡して事務的な手続きをして、

3ヵ月後に給料が7割分だけ振り込まれ「会社の終わりってこういうものなんだ」という印象を受けました。

それからレッスンの担当が外されたところもありましたが「クラブから直接の契約を」ということになり、契約形態が変わりましたが、レッスンの数は減りましたが、仕事そのものは継続しました。

それから別の会社で仲の良かった副社長さんから電話が来て「是非うちに来てくれ」という話になり、そこで初めて運命の横浜市港北区綱島のスポーツクラブへとやって来ました(笑)

そこのクラブは少し老朽化していましたが広い体育館があり、床はクッションが利いていて初めて案内された時に「ここだ!」と感じすぐ様に仕事を引き受けました。

武術は床が固いと怪我をしやすいこともありましたが、ここはいい程度でクッションが利いていて、とてもいい環境だと実感しました。

そこで支配人さんを紹介されスクール事業部という中で仕事をすることになりました。

それから週に4回、府中から綱島までは1時間ちょっとかかり、通勤が結構大変でした。

そして、東京ではエキシビジョンイベントや体験レッスンで、すぐに人が集まりスタートできたのが普通だったのですが、綱島では全くうまくいかず、支配人さんから「大丈夫!?」と声をかけられました。

ある日、副社長がクラブに来ていて「成ちゃん、あまりうまく行っていないみたいだね。ここはテンポの速いのが好きな東京とは違って、ゆっくりで堅実な地元意識が強い土地なんだよ。いろいろと工夫して考えてみてよ」と言われました。

それから府中までの、帰り際の電車の中でいろいろと考えていました。

今でも覚えているのは、夏の暑い日の帰りに南武線で途中停車した稲城長沼駅から見えた「田んぼ」の稲が青々と繁っていた光景でした・・


次の週に副社長が来て「成ちゃん、どう調子は?何かいいアイデア浮かんだ!?」と聞かれ、

「浮かびました」と答えました。

「へぇ、どんな感じ」と言うので、

「論語に云う30にして立つ、自分がここへ引っ越して来て、地元住人になって頑張ります」と答えたら、

「本当!!」と言うので「本当です」と言いました。

その日の帰り際にすぐ物件探しをしてメドを立てて、家に帰ってその話をしたら「ええっ!」と家族に驚かれました。

そして翌月に引っ越しました。

「思ったが吉日」

案外やってみたら、実際には快適で、通勤時間もなくなり、他のクラブへの移動も便利で、合い間にいつも考えたり工夫する時間も余裕も出来て実質は増えて良くなりました。

時間に余裕が出来たので、「ひらめき」はいつも働き、レッスンのない時間帯にはあちこちへチラシ配りに回ったり(実は気持ちいい川原での散歩が気持ち良かったりして)とにかくいろいろな意味で頑張りました(笑)

そして真夏の暑い日には、帰りに有名な綱島温泉で汗を流して、軽くちょっと昼寝をしてサボったりして(笑)戻ってクラブでの営業を手伝いました。

この街の地域は慌しい東京とは違って、歴史も長くのんびりとしたところが大好きになりました。

そうするうちに、自分にも地元意識が移り始め、いろいろとアイデアが浮かんでは試して、浮かんだら試してをするようになりました。

それからある流れができると、だんだんと会員さんが集まるようになり、

体育館で同じ曜日の時間帯でやっていた剣道のクラスより人数が増え、

武術の練習のレッスンには、いつも観客のような人も出て、太極拳のクラスも、盛り上がるようになりました。

今になって思うと、自分が仏法関係の日本人で敬意を思い尊敬するのは「弘法大師 空海」「道元」「一遍上人」です。

(※自分は「フィットネス」という空間を利用して、現代日本社会的環境で不自然ではない「かたち」で「法を説く」修練を行っていたのかも知れません・・)

その当時ぐらいから、スポーツクラブ、フィットネスクラブは雨後の竹の子みたいに、あちこちの駅前にコンビニエンスストアか牛丼店のように瞬く間にどんどん立ち始めました。

そんなこんなで横浜へ移ってから2年が経ち、2001年の2月の最終週の月曜日に出社すると事務所以外の電気が消えていて、

支配人がいて「成ちゃん、申し訳ない会社は破産した・・・結果は後で連絡する」と言いました。

自分は「そうですか」と言い、その日は午後のレッスンが別のクラブであるので移動しました。

移動中の電車の中で「またか、今度はどうするかな・・・」

そんな発想がすぐに浮かび、もうアイデアを出す工夫をするようになりました。

人間、何でも鍛えられるもんです。

捨てる神ありゃ、拾う神あり、というのは本当で、

そうするうちに、また別のクラブのマネージャーから「新規オープニングがあって来期でもすぐにでもレッスンできる曜日ないかな」と電話がかかってきて、すぐに引き受けました。

それが今でも担当する朝日スポーツクラブBIG・S綱島(祝:オープニング14周年!)でした(笑)

そしてそれからも他にいくつか声がかかり、今でもレッスンを担当しています。

一時期は五禽戯の普及に協力してくれるところも出て「インストラクター養成スクール」もやりました。

こうしてこの仕事をしているうちは、何かしら落ち着かないな、ということもあって、

やはり企業でやる、というのと自分の生涯をかける一事業というのは異なると経験で感じ、地域社会での活動組織というスタイルで「横浜武術院」の運営を始めました。
 
(何故、名称を横浜武術院にしたか、という理由は2002年の2月に上海武術院の事務所でデビュー戦での国際大会の打ち合わせに上海に行っていて、お前の運営組織は何ていう名称だと聞かれ、まだ決めかねていて、その場で「そう、横浜武術院」と答えて、そのまま名前になりました(笑)

運営には多くの面であまりコストをかけず、できるだけ大人数を意識せず、地域の活動で、

楽しくいつまでもできるようにしよう、ということを地元綱島に学んだ気がしました。

今年は中国との往来を始めて30周年。

一昨年は復旦大学武術協会の花妙林老師の来日、昨年は我々が上海復旦大学武術協会で研修と交流ツアー、

今年はその関係でのオファーを受けたシンガポール国際武術大会、そして先月の亳州華侘五禽戯58代周金鐘老師の来日、東京での親睦会。


もし企業の中での一員としての仕事で、ずっとやっていたらこうはいかなかったように感じます。


何かしら、今もまだ低迷が続き「勝者なきサバイバル」とまでいわれている「フィットネス業界」ですが、

私自身が感じるのは、会社そのものが営利で意識が固くなり過ぎて応用が利かなくなってしまっていて、

人事をいじっても、新しいプログラムを作って流行らせようとしていても、

あまり効果が上がらず時間の浪費を繰り返している企業が似たり寄ったりで多い気がしています。

今は支配人やマネージャーなどの担当者も私の年下ばかりで現場経験も少ない人が多い状況です。

不思議なことに、規模は全然大きくはないのですが、ほとんどボランティア的な運営ですが横浜武術院での活動は楽しく好調で、

フィットネス企業の事業体では規模が大きくとも、どこも赤字で苦しんでいるところが多い現状です。

以前は必死で何が何でも、必死になってやることばかりを追求することを沢山たくさん経験しました。そして自分の心身が常に良好な状態や環境こそが大事に感じています。


今の自分の境地は「やらなくていいことはやらず、やるべきことが生まれたら集中して行う」

そんな感じです。

思うのは「仕事」の質というのは、計算ばかりをして画策して数字を上げようと考えて意図すればするほど上がらないように感じます。

老子の言葉に「物事は、減らそうと思えば増え、増やそうとすれば減る」という本質を云う言葉があります。

そんなことも含めて、

今は横浜での指導が中心で、週に1回、東京で指導の周る日だけですが、都内の景観を眺める毎に「チャンスを活かせない」現代日本社会の構造の複雑さを眺めています・・・