先週の11月6日(金)から8日(日)まで「亳州市伝統華侘五禽戯」を通じて訪れた京丹後への旅。

五禽戯を創始した「華侘」は、三国史の武帝「魏国」の太祖曹操の専属医師でした。

京丹後で皆さんと一緒に盛り上がった「魏志倭人伝」や「丹後王国」「倭の五王」

岡山の「吉備国」と同様に「ヤマト政権:大和朝廷」成立前の、日本国内での重要な東アジア地域での地政学的な歴史関係での数々のこと・・


昨日の水曜日は週1回の休日。


意外に意外な出来事の連続で、私の中にある「歴史認識」が大きく揺さぶられ、不思議な縁の数々に驚き、あまりにも歴史的な長さや深さでの関連があり過ぎて、

落ち着いての整理がなかなかつかなくて、何かしら感覚を休めようと思い、

何処かに行こうかな、と思ったところへ、

「丹後七姫」での「龍宮伝説の乙姫」「静御前」を思い出したら、

思わず源義経の「鎌倉」と「龍宮大神」を祀る「江ノ島」を連想し、早速「いざ鎌倉」へと向いました(笑)

私にとって「鎌倉」は自分の家系での出自や多くの関係で身近で、時間さえあれば訪れて、様々な「想い」を感じ取る場所でもあります。

今回は、いつもの感じと異なり日本の「政」の歴史という観点を感じるような道を歩くことにしました。

先ずは北鎌倉で降りて「円覚寺」

私の父方祖母の出自に関連する深谷上杉氏にゆかりある「明月院」

それから鎌倉時代から大きな力を持った中国にゆかりある「建長寺」

そして関東へ権力の中枢を初めて移した武家社会を建立した「鎌倉幕府」の城、「鶴岡八幡宮」をいつもとは別の視点で拝観しました。

鶴岡八幡宮

ふと気付いたことは「シンボルマーク」は「白鶴」が「鶴岡八幡宮」

そして連想したことは、

神武天皇が大和へ東遷する折、熊野の山中で停滞する一行を大和へと道案内し、皇軍の勝利に貢献したのが「八咫烏」

御由緒から古来、軍神として崇敬され、南北朝時代には後醍醐天皇の篤い信仰をしていたことがありました。

「白い鶴」と「黒の烏」

白と黒、陰と陽、関東と関西、いろいろな視点に纏わる日本国内での長き歴史的史実を思いました。

鶴岡八幡宮の下には、

丹波七姫の一人、静御前が鎌倉へ幽閉された後、八幡大菩薩に献舞をと説得され、若宮の回廊で舞を披露し、

静は、源義経を慕う今様(いまよう・歌)にあわせて舞いを行い、工藤祐経が鼓を畠山重忠が銅拍子を打ちました。

その舞を行った場所、若宮

若宮


何かしら京都と鎌倉との密接な繋がりを思いました。

そしてその横にあるのが、

源頼朝が鎌倉入りをしたときに先陣を勤めた武将で、豪傑の逸話を持ち鎌倉幕府の建立に尽くした武将「畠山重忠」の石碑。

畠山重忠の石碑


記されている記述の内容は、

『正治元年五月七日(1199年)、丹波時長が、掃部頭(かもんのかみ)中原親能の亀が谷の家から、畠山次郎重忠の南御門の家に移った。これは、三幡姫の極く近い所に居て、姫の病気治療にあたるための転居である』

丹波時長の記述


京都丹波の名医、丹波時長

倉中期の医師。父は長基。針博士・典薬頭などを歴任。当時名医の聞こえが高く、正治元年(1199年)三月、源 頼朝の次女乙姫が重病の際、幕府からその治療の為鎌倉に下向することを再三求められるが固辞。のち院宣によってようやく下向し治療にあたった。

承久元年(1219年)、将軍 源 実朝 が暗殺され、九条頼経 が後継者として鎌倉に迎えられると、その侍医として下向した。

中国から来た渡来人の医師の末裔が丹波康頼、その子孫が丹波時長、思うと何かしら神医「華侘」からの歴史をふと思わせることがあります。


それからふと思ったことで、今までに何度も鎌倉を訪れていてまだ1回も通っていないハイキング・コースの名前「祇園山コース」に気付きました。

「祇園山」そうか京都・・

その入り口には萩寺と称される「宝戒寺」

宝戒寺

その裏手にあるのが「東勝寺跡」

東勝寺跡

東勝寺跡2

そして東勝寺跡の上側にある「腹切りやぐら」は、元弘3年(1333年)に新田義貞に攻め込まれ、敗走した北条高時が自ら一族郎党800余人と共に自決した場所。

「腹切りやぐら」

「東勝寺合戦」

何かしら日本の歴史背景を大きく振り返りいろいろと考えました。

武家政権誕生の地、鎌倉。

源氏の内乱、北条家の企み。

幕府運営で外交政策での失策をした結果に起きてしまった元寇。

更なる国内政治運営を傾けたことから起る「東勝寺合戦」

最期の第14代執権、北条高時の自決。

鎌倉幕府滅亡。


何とはなしに、この10数年の日本を含む世界の地政学を振り返り考えました。

今世界で新たな潮流が起っていることと、とても似ている気がしました。


やはり日本の歴史も長く複雑で、感想としては、

現代日本社会人の持つ「歴史観」は、各自各自のこれまでの出自や、得てきたものの質で出来上がっていて、それらの既得権益に執着し、政をおろそかにした者たちの末路は常に同じような路を辿る気がしました。


見晴らし台


見晴らし台から稲村ガ崎を見つめ、そう感じました。

八雲神社

ハイキングコース出口にある「八雲神社」にお参りしてから、次は「龍宮」伝説のある「江ノ島」に向かいました。

江ノ島

江ノ島2


実は京丹後で吸った空気の質と、海鮮の味と、江ノ島とを比較して感じてみたいと思ったからでした。

江ノ島5


江ノ島の高台に登り、思い切り空気を吸うと確かに京丹後と同じ質の香りを感じました。


江ノ島6

江ノ島4

江ノ島3


しかしながら京丹後の空気の質や海鮮の味にも「濃さ」や「深さ」を実感しました。

おそらく長い歴史の時間の中で、伝説や御伽噺は歴史長き京都から、流れ流れて、羽衣天女の伝説は三保の松原に伝わり、龍宮伝説は江ノ島へと届いたように思います。


歴史長き中国の文化の伝播はダイナミックで伝わりが早く力強いのは今現在でも変わらないと思います。

思うと日本での文化の伝播はゆっくりじわじわと、流れ行き届くように思います。

ダイナミックな中国式に鍛えられた私は時折、のんびりし過ぎて実感の遅い日本式が、日々に歯がゆく、いたたまれないことが今でも多々ありますが、しかしながらそれもそれで日本の特徴。

良い面も悪い面もあります。

私のような人間が特殊なライフワークをしてしまったことが良くも悪くもあり、それを賢明的に質実で応用しながらやっていくことが大切なにことに気付きました。


それに今回は中国、曹操の「魏」と古代日本:倭の「邪馬台国」または「丹後王国」との直接的な関係。

それから「魏」に服属していた朝鮮半島の関係。

古代朝鮮王朝でも高句麗、新羅、百済、任那の違い。

魏から晋になり、後に中国が分裂し、朝鮮半島の中でも分裂し、新羅が強くなった関係。

そして次にまとまった高麗。

新羅と日本のヤマト政権との関係。

古代中国と丹後王国との関係。

丹後王国と大和朝廷との関係。

そして丹後王国と京都との関係。

京都と鎌倉との関係。

日本は歴史的に中国が強大でまとまっている時の関係は日中間が良好で、そちらに向いている日本人があり、

中国が分裂し、力が対外的に弱まり、お隣朝鮮半島内での権力の強くなった王朝の時期となり、中国を外して、そちらに向いている地政学的にも好む日本人もあって、

日本列島内でも、同じ日本人同士でもそれぞれに感覚がまったく異なる歴史的事実を確認しました。


そして今回の亳州訪問団の皆さんの来日がきっかけで京丹後市との縁が出来て、私の知らなかった歴史を知ることも非常に大きな刺激になりました。

やはり常に積極的なアクションと誠心誠意を持った生き方、自身の人生の過ごし方というのは大事に思います。

不思議な「縁」

ありがとうございました。


これも意外なのかも知れませんが、京都と京丹後を舞台にした映画「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋(第29作)」