先週の水曜日から雨降りが続き、梅雨時期特有のだるさや関節痛が普段から運動習慣を持たない方や、あるいは運動をしていても質が高くないと、やはりこうした時期には体調不良を訴える方々が出てきます。
私はこの時期、いつも常々に頑張っておられる皆さんに「こうした時期こそ、普段の努力の成果が出ますよ」とお伝えしています。
あるいはレッスン前に「こういう体調が優れない方々が多くなる時期こそ効果が大きいです」とお話しをしてから行うようにしています。
そうすることで、世間に多く蔓延る具体的根拠のない「見掛け倒し」の健康法や場当たり的な捏造的運動のものと、はっきり区分をさせることを行って実践の重要さの確認をしています。
現代日本社会には戦後8000万人だった人口を70年で、1億2700万人まで政府は政策で増やし、人口増加による原因が全世代にふりかかり、
今の時代は各自の人生設計に合わせた生き方の選択をしなければならない時代で、行政や財界の行う政策での思惑へ、マスメディアからのプロバガンダ作戦に簡単に載せられてしまうと「こんなはずではなかった」というような人生になってしまう時代なのかも知れません・・
昨日は午前の野外太極拳の練習活動は中止でした、でも今年は春から初夏まで内容を濃くして進めてきたので、後は皆さん各々の目標に近づけるような活動になっていくと思います。
今年は秋にまた鎌倉での野外ハイキング&練習交流会を行いたいと思います。
午後は武術院の全体練習で、全体的にいい感じで進み、皆さん同士で互いに切磋琢磨する雰囲気にとても活気があって嬉しかったです。
私は3年前の春に中国武術修養30周年を記念して、日本武道回帰を図りました。
その方法としては、自身の出身のまだ身に着いていた剣道を復刻して、鹿島流儀の剣術各種から、いくつか技法を取り入れさせて頂き、兵法剣術を総編しました。
いつも金曜日と日曜日の指導の前には、自身の稽古を行っていて、改めて日本武道の素晴らしさをも常々に実感します。

少年時代の自分に剣道の訓戒にあった「心を重んじ道場に入ります」という一文は、今までの中国武術に転向した後も、実は私の深層心理にまで染み込んでいて、
その感覚が中国の老師の皆様が、私を気に入ってくれた理由だと今思うに感じています。
そのために昔から今でも、練習場にはいつも一番で入るようにしています。
そして、静かな空間の中で黙想や「武道神」への拝礼を行うことで、
「自己修養」となっていく日本武道精神が磨かれるものだと思っています。
中国大陸への往来を重ね、中国武術と養生功、養生学や中国古典の思想哲学を修め、
今こうして日本武道に立ち返り、神道や仏道、そして武道精神を想うと、
何かしら日本という国を築いた日本人の培った精神性に畏敬の念を感じます。
今や何でも有りの現代日本社会で問題も多く起こりますが、
やはり、かつての日本もおそらく同様で、
どんなに世の中が乱れようと、どんなに権力者たちが、おかしな行動を行おうとも、
自身がしっかりしていれば、何も怖れることは何もなく、
そこへ今の私には伝統中国の功法の実践や医学教養の知識を有したことは、
かつての私自身の中にある、私の家系の遺伝子の何かが動いて、
「私」という、ひとつの生命体を動かしてきたように感じています。
日本武道回帰も、何かしら、そんなことを想っていました。


昨日は、静かな体育館の中で、居合いを通して刀との一体感を図り、
木剣(木刀)で見えないけれども、見える相手との間合いを感じて稽古を行いました。
日本武道では「心・技・体」という表現をしています。
中国武術には「精・気・神」を三華と呼び、「天・地・人」を三才といいます。
中国武術では「内外合一」と呼び、
「内三合」には、
「意」「気」「力」の統合された「心」のはたらきは、大脳の示す「精神力」が体内の中枢神経を伝わる命令感覚である。それを「神」と呼ぶことがあります。
「外三合」では、
順式・拗歩などにおいてでの「肩と股関節」「肘と膝」「手首と足首」の連動をいい、
その内外三合での「内外合一」の動作原理の中で「身械:身体と器械」の統合・統一を目指し、
「身宇:身体と宇宙」大自然との融合と調和を図る、としています。
最近、長き日本と中国との歴史的な交流を想うと、常に中国は合理的、実践的であり、
日本文化は全体的には想像力をはたらかせた先に実践が生まれ、
シンプルな道理のものへと辿り着くことに重きを置いていると思います。
どんな武芸でも、稽古を行う、どんな場においても、
その空間に「武神」が宿るか、どうかは先ず「己自身」であり、
そして共に武芸に励む仲間同士との「想い」が、
空間に武神を呼び、それぞれの武芸の発展にと結びついていると思います。
「練習場に武神が宿る」
これは日本精神文化の中で、今までに振り返る武芸経験を思いだすと、
とても大事なことを教えてくれると思います。

私はこの時期、いつも常々に頑張っておられる皆さんに「こうした時期こそ、普段の努力の成果が出ますよ」とお伝えしています。
あるいはレッスン前に「こういう体調が優れない方々が多くなる時期こそ効果が大きいです」とお話しをしてから行うようにしています。
そうすることで、世間に多く蔓延る具体的根拠のない「見掛け倒し」の健康法や場当たり的な捏造的運動のものと、はっきり区分をさせることを行って実践の重要さの確認をしています。
現代日本社会には戦後8000万人だった人口を70年で、1億2700万人まで政府は政策で増やし、人口増加による原因が全世代にふりかかり、
今の時代は各自の人生設計に合わせた生き方の選択をしなければならない時代で、行政や財界の行う政策での思惑へ、マスメディアからのプロバガンダ作戦に簡単に載せられてしまうと「こんなはずではなかった」というような人生になってしまう時代なのかも知れません・・
昨日は午前の野外太極拳の練習活動は中止でした、でも今年は春から初夏まで内容を濃くして進めてきたので、後は皆さん各々の目標に近づけるような活動になっていくと思います。
今年は秋にまた鎌倉での野外ハイキング&練習交流会を行いたいと思います。
午後は武術院の全体練習で、全体的にいい感じで進み、皆さん同士で互いに切磋琢磨する雰囲気にとても活気があって嬉しかったです。
私は3年前の春に中国武術修養30周年を記念して、日本武道回帰を図りました。
その方法としては、自身の出身のまだ身に着いていた剣道を復刻して、鹿島流儀の剣術各種から、いくつか技法を取り入れさせて頂き、兵法剣術を総編しました。
いつも金曜日と日曜日の指導の前には、自身の稽古を行っていて、改めて日本武道の素晴らしさをも常々に実感します。

少年時代の自分に剣道の訓戒にあった「心を重んじ道場に入ります」という一文は、今までの中国武術に転向した後も、実は私の深層心理にまで染み込んでいて、
その感覚が中国の老師の皆様が、私を気に入ってくれた理由だと今思うに感じています。
そのために昔から今でも、練習場にはいつも一番で入るようにしています。
そして、静かな空間の中で黙想や「武道神」への拝礼を行うことで、
「自己修養」となっていく日本武道精神が磨かれるものだと思っています。
中国大陸への往来を重ね、中国武術と養生功、養生学や中国古典の思想哲学を修め、
今こうして日本武道に立ち返り、神道や仏道、そして武道精神を想うと、
何かしら日本という国を築いた日本人の培った精神性に畏敬の念を感じます。
今や何でも有りの現代日本社会で問題も多く起こりますが、
やはり、かつての日本もおそらく同様で、
どんなに世の中が乱れようと、どんなに権力者たちが、おかしな行動を行おうとも、
自身がしっかりしていれば、何も怖れることは何もなく、
そこへ今の私には伝統中国の功法の実践や医学教養の知識を有したことは、
かつての私自身の中にある、私の家系の遺伝子の何かが動いて、
「私」という、ひとつの生命体を動かしてきたように感じています。
日本武道回帰も、何かしら、そんなことを想っていました。


昨日は、静かな体育館の中で、居合いを通して刀との一体感を図り、
木剣(木刀)で見えないけれども、見える相手との間合いを感じて稽古を行いました。
日本武道では「心・技・体」という表現をしています。
中国武術には「精・気・神」を三華と呼び、「天・地・人」を三才といいます。
中国武術では「内外合一」と呼び、
「内三合」には、
「意」「気」「力」の統合された「心」のはたらきは、大脳の示す「精神力」が体内の中枢神経を伝わる命令感覚である。それを「神」と呼ぶことがあります。
「外三合」では、
順式・拗歩などにおいてでの「肩と股関節」「肘と膝」「手首と足首」の連動をいい、
その内外三合での「内外合一」の動作原理の中で「身械:身体と器械」の統合・統一を目指し、
「身宇:身体と宇宙」大自然との融合と調和を図る、としています。
最近、長き日本と中国との歴史的な交流を想うと、常に中国は合理的、実践的であり、
日本文化は全体的には想像力をはたらかせた先に実践が生まれ、
シンプルな道理のものへと辿り着くことに重きを置いていると思います。
どんな武芸でも、稽古を行う、どんな場においても、
その空間に「武神」が宿るか、どうかは先ず「己自身」であり、
そして共に武芸に励む仲間同士との「想い」が、
空間に武神を呼び、それぞれの武芸の発展にと結びついていると思います。
「練習場に武神が宿る」
これは日本精神文化の中で、今までに振り返る武芸経験を思いだすと、
とても大事なことを教えてくれると思います。
