私は1969年1月の生まれで、申:さる学年、酉:とり年と、よく申し上げています。

小学校1年から、6年まで週2回の剣道の稽古と同じく週2回で水泳を行っていました。

※つまりは、定期的な体育運動の習慣がなかったのは生まれてから6歳まで(笑)

実は私自身の性分というのは今でもそうですが、元々は「不器用で、負けん気だけが強い」というものだと思います。

2012年から自身で剣道を復活、2000年に横浜へ移り、夏にはいつも湘南の海でボディ・ボードをやりながらも泳いでいるので、その両方は今も活きています。

小学校の低学年の頃、空手ブームがあり「Gメン’75」というドラマがヒットしていて、香港カラテシリーズが好きでした。

そしてカンフー・ブームが起こり、中国武術の世界へ憧れを持つようになりました。

その頃、月刊空手道という雑誌の中に中国武術に関する記事がよく出ていて、そういうところから情報を得ていました。

剣道も小学校高学年になって、もの足りなさを感じるようになり、当時は「中国拳法」と呼んでいた時代で、何かと本を見ては、独学で勝手に練習をするようになりました。

剣道の稽古の空き時間に防具の面を着けたまま、小手の先をグローブに見立てて、悪友とスパーリングをしていたら、もの凄い勢いで叱られ、それから剣道の師範から嫌われるようになり、

剣道を辞めていくことにもなっていたと思います(しかし当然といえば当然、の複雑な心境・・)

おそらく笑われると思いますが、実は小学5年生から、音楽に興味を持ち、トランペットを買ってもらって習い、学校の楽団に2年間入っていました。

そして中学生になって、剣道と水泳を辞め、音楽も辞め、何かしらと新しい世界観を求めていました。

中学では、必ず部活に入らなければならない、という規定があって、走る練習を何かしようと思い、テニス部に入りました(笑)

テニス部では、結構走らされ、いいトレーニングになりました。

しかし夏休み前の3ヶ月で、年功序列型の体育会系の上下関係が嫌いで、同年なのに1ヶ月早いからという理由で先輩後輩となる関係に納得いかず、そのことが理由で同級生と喧嘩して退部させられました(笑)

その年の頃は、荒れた少年時代を過ごしました。

私にはひとつ上の兄がいて、先に空手を習っていました。

そして、よくあるように練習相手にされて実験台にされ、ここでスパーリング感覚を掴むことができたのは良かったと思います。

兄も中国武術に憧れを持っていて、都内で当時一番の名のある道場をクラス別で3回ほど訪ね、演武会にも招待されました。

しかし本能的に思ったのは「何か違うな」という直感でした。

(※この道場の師範が、後に全日本太極拳協会で杜進老師の門下で一緒になったことが興味深い出来事でした)

そのうちに兄が太極拳教室に通い出し、自分も一緒に行くようになりました。

1982年のことでした。

そこの教室では長拳を取り入れたばかりで「君はちょうどいい」ということになり、武術基本功と基礎長拳の套路を指導員の方から学びました。

そして翌年、北京から謝志奎老師が来日され、講習会に参加させてもらえました。

そこで初級長拳1路、2路、3路を学び、当時は中学3年生で中国語はできませんでしたが、謝志奎老師の柔らかい眼差しと、長拳の実技や花拳の技にとても感動しました。

もうこの頃は、良くも悪くも、時間さえあれば武術のことを思い、技を練り、何かと調べまくる習性が着いてしまいました(※馬鹿は死ななきゃ直らない、とうのは違います。おそらく死んでも直らない)


1983年 14歳 初めての演武

 1983年 14歳


高校1年生になり、雑誌の記事から「第1回全日本太極拳・中国武術表演大会」という競技会が大阪で開催されるようになり、

それから「君も出てみないか」と推薦され、兄と兄の友人と3人で大阪へ行き出場しました。


1984年 6月

1984年 15歳


初めての国内の大会での経験や、最終日の初めて目前で中国老師の演武には感動しました。

大会が終わって東京に戻った時から「もっと功夫を積まなきゃ一人前になれない」と何かしら落ち着きがなくなり、

何かしらチャンスを探していました。

そんな中で知人同士のコネクションで同じ第1回大会に出場されていた、全日本太極拳協会の皆さんと知遇を得て、一緒に練習をさせてもらえることになりました。

そのことから全日本太極拳協会を紹介され、杜進老師に師事しました。


1985年 馬王堆導引術 健身気功 五禽戯の総編者 邱丕相老師

邱丕相老師 1985年


1985年 上海で朱多媚老師と共に

1985年 16歳


人の縁というのは不思議なもので、1985年に初めて上海体育学院で学び、

杜進老師の師爺の徐文忠老師に学び、翌年1986年に安徽省武術隊、第1回大会の演武に感動した徐文忠老師のお嬢様、徐淑貞老師にも学び、

日本人でありながらも、安徽省武術界と上海武術界の一員となりました。


1986年 全日本太極拳協会 拳祖杯大会 で初の銅メダル

1986年 17歳


17歳の頃の自分(笑)

1986年 17歳


1986年の上海 外灘(左側が浦東地区 下の写真は現在の外灘)

1986年 上海


2014年の上海(笑)

上海 2014

煌く上海 外灘



1986年 安徽省武術隊の仲間達

安徽省武術隊 1986年


1986年 徐淑貞老師 
 
徐淑貞老師 1986年


1987年 第1回アジア武術選手権大会で中国代表で来日された、兄弟子 賈平さんと共に

1987年 


1988年 来日され 付き人をしていた 徐文忠老師と楊承冰老師

1988年 徐老師



だんだんと時間が経ち、

1989年からは中国語を話し、中国大陸内を自由自在に動き回るようになりました。


1989年 花妙林老師と共に

花妙林老師 1989年

花妙林老師 猴棍


1989年 安徽省武術隊にて

楊仁涛老師 楊承冰老師

安徽省武術隊の仲間たち 

1989年 

1989年 


1990年 湖北省武術隊で仲良かった陳躍華くんと武漢にて、

1990年 


実は、何故にこうして古い写真を引っ張り出して来た、という理由は、

来月に遠征するシンガポール国際武術大会に、

亡き徐文忠師爺のお嬢様の徐淑貞老師と、1985年に徐老師と一緒に来日された張品元老師のお嬢様の張薇薇老師がいらっしゃることを知り、

お父様、お母様、ご祖父の老師が指導で来日されていた時の写真:スナップを記念品としてプレゼントしようと思ったことがきっかけでした。

(※当時はカメラは高級品で写真がおそらく残っていないと思います・・)


今、思うに、先生方は、こんな自分の何を気にいってもらえたのか不思議でした。

懐かしい写真の数々を見ながら、こうして長い時間が過ぎて思うのは、

おそらく「不器用で、負けん気だけが強い」という性分を面白く思っていたのではなかろうか、というものでした。

今までに自分の周りには「器用で素質も良く、天才的」な人はたくさんいました。

こうして確かに今でも、それはありとあらゆるところまでも同じで、

何かしら何処かで、過去の自分のような方々にエールを送り、チャンスを作ってあげる。

老師が私にして下さった、そんなことを今現在にも行っていることを思います。

未だに、それはまだ、道の途中・・


20年前 全日本大会

長拳

刀術

棍術

三人対打拳


10年前

カンフー

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昨年

2014年中国武術・健身気功交流会3