
昨日はシンガポール国際大会の費用の海外送金のために都内の方へ出かけました。
現在日本から中国へ送金できるのは中国銀行ですが、其の他に東京駅前にある中国農業銀行を下見して、そこからユナイテッド・オーバーシーズ銀行へ行き、送金手続きを終えました。
やはり結構手続きに時間がかかり、また一つの方法を学びました。
将来的にはこうした段取りのパターンづくりが活きてくると思うので、私はいつも直接に様々な経験をするようにしています。
思った以上に午前いっぱいを使いましたが、午後はそのまま久しぶりの東京散策をしました。
気付いたのはやはり中国人観光客の皆さんが多かったことでした。
何処でも楽しそうに記念写真を撮って喜んでいるようで、嬉しかったです。
私は以前から「多くの中国の方が日本に来て実際に感じてもらった方がいい」と言って来ました。
日本では爆買いといっていますが「中国的な大判振る舞い」があって、よく何処かへ旅行に行くとお土産をどなたも振舞われると思いますが、
あのパターンがやたらと中国的スケールでドカンといくのです(笑)
実は今の中国でパスポートを持って海外に出られるのはまだ「1%」だそうで、これからもっと増えると思うので観光収入も上がって、日本の景気回復に役立つと思います。
思うのは「小さな出来事」を意識するのではなく「大局:大きな発展的視点」を見て日本人はもっと心を大きくする必要があると感じます。

午後は明治神宮へ参詣しました。
やはりここでも中国の皆さんがいっぱいいました(笑)しかし意外には米国人と思われる方々もかなりの数がいました。
そこで広い神宮境内を散策しながら、普通一般の現代日本人の考える「中国」あるいは「中国人」のイメージのことを思いました。
よく雑誌や新聞の報道記事の中には「中国が日本を買収」するとか「日本を占領する」とか「日本に危機をもたらす」という論調がたくさんあります。
私が思うには中国の皆さんは「合理主義」が徹底していて、無駄や無意味なものが嫌いな傾向があります。
ですから「購入しても後で役に立たないもの」には興味を持たず「慎重な数々の調査結果以後に起こる計算的な衝動買い」「後々に面倒になるようなものには、理由を付けて求められても関心なし」という感覚がどなたも徹底していると思います。
そして中国語を話してみると判るように言語感覚は常に「具体的」な表現をします。
私の考える中国人のイメージは「具体的」で「現実的」な方々が多いと思います。
どちらかというと日本人は「抽象的」で「叙情的」になり、感覚は正反対になっているように思うことがあります。
おそらく普通の日本人だと、報道から「ある意見」を聞いたりして想像を働かせてしまい、きっとああだろう、こうだろう、そうなるに違いない、というように飛躍していくうちに、
想像の中で、イメージを作り上げ、それが現実のものであろうと意識する、という思考パターンがあると思います。
しかしながらそうした「誤解イメージ」を構想しやすい一面ではマイナス面ですが、
文芸や音楽など、ロマンチックな世界を考えられるのは日本人の持つソフトパワーの原動力にもなっていると思います。
これからの日本人はそのイメージを働かせて中国とのコンビで何でも交流していけば必ず、いい方向に行くと私は思っています。
現に自分も日本にいる時でも想像力を働かせて試行錯誤を繰り返しながらも、うまくいったことがあると、それをまた徹底して行ってきた積み重ねが今現在に役立ったと思います。



私は日本人でありながらも、長い付き合いから「中国的発想」もする人間になってしまい、時折困惑することはよくあります。
逆に日本的でもなく、中国的でもない、そんな感覚が活きることがよくあって、
今回の神宮の境内でも、水と空気と言葉、建築美、これが日本の自然信仰の対象であって、古来から続く日本的な意識では、そうした静寂な美意識が自身を発奮させ、心地良さから「やる気」を引き出す、儀礼的なものであることを見抜けます。
そして、
明治という時代に、日本の江戸を西洋化した東京へ変え、多くの人間を増やし家を建て、大都会主義を構想し、こうした自然を残し、人々の憩いの場を作ったのだろう、とか、
中国人から見ると、どう見えるだろうか、あるいは米国人からはどのように目に映るだろうか、とか、
こうして静かな道を歩むうちに、いろいろなことを考えました・・
日本神道の美学とは敢えて、具体的に明確に本質を「言わないことでも、気付きと理解との共感を大事にする」
しかし、現代日本人であっても、それは判るだろうか、判らないだろうか、気付くだろうか・・

人ごころ すがすがしきは ほがらかに
あけたる空に むかふなりけり
かへりみて こころにとはば 見ゆべきを
ただしき道に なにまよふらむ