ここ最近に「魏志倭人伝」を、今また一つ地政学的な理由で「想う」ことがあって私の所見から研究して考えています。
「日本」と「中国」との「2000年」以上ある歴史長き往来のあった事実でも感覚を踏まえて改めて想うと、
古代から日本人は「記録」という能力を持てず、歴史書「三国志(魏、呉、蜀)」での魏国の史書にて、
「倭人在帯方東南大海之中依山島爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國」
という記録があって始めて知り得たものです。
興味深いのは、
「自女王國以北其戸数道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」
「倭国の首都邪馬台国より以北(実際は以西)については、所在する国々の戸数や道順、距離を概略記述するが、邪馬台国の周辺の他の国々については、余りにも遠いので詳しく記述することができない」
そして、
次有斯馬國 次に斯馬国(三重県志摩)が所在。
次有巳百支國 次に巳百支国(三重県日置か)が所在。
次有伊邪國 次に伊邪国(愛媛県伊予)が所在し。
次有都支國 次に都支国(岐阜県土岐)が所在。
次有彌奴國 次に弥奴国(岐阜県美濃)が所在。
次有好古都国 次に(大阪府河内か)が所在。
次有不呼國 次に不呼国(兵庫県武庫)が所在。
次有姐奴國 次に姐奴国(長野県信濃)が所在。
次有對蘇國 次に対蘇国(高知県土佐か)が所在。
次有蘇奴国 次に(愛知県曽野か)が所在。
次有呼邑國 次に呼邑国(山梨県甲斐か)が所在。
次有華奴蘇奴國 次に華奴蘇奴国(石川県金沢か)が所在。
次有鬼國 次に鬼国(和歌山県紀伊)が所在。
次有爲吾國 次に為吾国(三重県伊賀)が所在。
次有鬼奴國 次に鬼奴国(群馬県毛野か)が所在。
次有邪馬國 次に邪馬国(京都府山城)が所在。
次有窮臣國 次に窮臣国(新潟県越)が所在。
次有巴利國 次に巴利国(兵庫県播磨)が所在。
次有支惟國 次に支惟国(岡山県吉備)が所在。
次有烏奴國 次に烏奴国(岡山県宇野)が所在。
次有奴國 次に奴国(福岡県那の津)が所在。
此女王境界所盡 この奴国は女王国の境界の最も外れにある。
という記述があるのですが、基本的に中国語(漢語)は今でも使われる同じ文体であり、そこに本当の歴史の深みを感じています・・
そして有名な「倭国大乱」の記述。
「三国志「魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)
「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」
其の国もまた元々男子を王として70 - 80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わした。成人となっていたが、夫は無かった。
「後漢書」卷85 東夷列傳第75
「桓 靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」
桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。
有名な三国志にあるように、魏の曹操は中国全土を行き来し、既にシルクロードから来た商人とも交易をしていた時代です。
当時の日本はまだ弥生時代であり、日本国内各地域での利益・権力を有する地元の権力者たちが有利な政を行っていた時代だと思います。
そうして、日本人は元々文字を持たぬ民であったために、そのこと故に日本人は日本人同士でも「意志疎通に揉める」という今でも続く感覚があるのはその名残だと感じています。
私は、こうした歴史的事実から踏まえて、こうしたところや、普段からの意見交換などを積極的に行うようにしています。
冷静に考えてみれば今でも、毎日職場や学校や家庭内でも日本人同士で普通に「意志の疎通」が図れないところが多く、
そんな状態で歴史の長い中国への国際感覚から配慮のできる「日本人」は今でも政財界を含めて少ない事実を確認します。
私の今更ながら、感想で思うと、大体が日本サイドの勘違いや想像を大きくし過ぎで、いつしか日本の政財界での自身での有利な利権ばかりを考える人達が、
中国政財界に敵対意識を持つようになり、そういった視点からばかり想像して報道が動いて、多くの日本人たちが、それを鵜呑みにして、
中国の方々に、こちらから勝手に気分を害して「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」を増長して応対をするようになり、
当然相手サイドも気分を損ねて、ここ数年によくある日中間の摩擦になったように感じています。
私が感じるに、本当に日本人なら日本の「美徳」である、謙虚な立場で冷静に応対すべきだと感じています。
いつしか今は、日本人であって日本人でない人が日本には多くなった印象を持ちます。
しかしながら振り返れば、それは倭と中国側が名付けられるまで名乗りのできなかった古代の日本とさほど今も本質的には変わっていない部分もあると思います。
そういうこともあって、私達の活動では「民間」での文化交流を重要視して行い、相互間の歴史長い「一衣帯水」の関係を大事にしています。
中国の言葉に「水を飲むときに井戸を掘った人のことを忘れてはいけない」とあります。
それぐらい歴史の重みは重要だと感じます。
(※今は「水を飲むときに井戸を掘った人のことを忘れてはいけない」と言ったら、何で~、ペットボトルで何処でも買えるじゃん。とか言われそうです・・)
そして、この戦後70年の間には国際連合(英米仏中露)の5カ国が国際社会の影響力を持ち、東西冷戦などを経て今日まで迎えています。
現在は、皆さんも既にご承知のように新たな国際秩序作りが始まっています。
日本は立場上、米国政財界の考える秩序の下に日本の政財界が政策を作り、わかりにくい単語や複雑な内容の構造になって私達の日常生活の中で目にする報道となっています。
(※ひと言でいえば印象操作、本当はシンプルに言いたくても普通世間に誰しもが知られる内容は、その時点で誘導されていると思ったほうがよいです)
正直なところ、今後は米国政財界の思惑で日本の政財界の方向性を決められていくと思います。
(選んでいるようで、選ばされているという表現が妥当でしょう)
日本は、またこれからも倭国大乱が待っているような気がして、治にいて乱を忘れずの精神で、
私自身は好きな中国との交流を大事に、日本国内で何があっても安泰でいられるように精進をしていきたいと思います。
「日本」と「中国」との「2000年」以上ある歴史長き往来のあった事実でも感覚を踏まえて改めて想うと、
古代から日本人は「記録」という能力を持てず、歴史書「三国志(魏、呉、蜀)」での魏国の史書にて、
「倭人在帯方東南大海之中依山島爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國」
という記録があって始めて知り得たものです。
興味深いのは、
「自女王國以北其戸数道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」
「倭国の首都邪馬台国より以北(実際は以西)については、所在する国々の戸数や道順、距離を概略記述するが、邪馬台国の周辺の他の国々については、余りにも遠いので詳しく記述することができない」
そして、
次有斯馬國 次に斯馬国(三重県志摩)が所在。
次有巳百支國 次に巳百支国(三重県日置か)が所在。
次有伊邪國 次に伊邪国(愛媛県伊予)が所在し。
次有都支國 次に都支国(岐阜県土岐)が所在。
次有彌奴國 次に弥奴国(岐阜県美濃)が所在。
次有好古都国 次に(大阪府河内か)が所在。
次有不呼國 次に不呼国(兵庫県武庫)が所在。
次有姐奴國 次に姐奴国(長野県信濃)が所在。
次有對蘇國 次に対蘇国(高知県土佐か)が所在。
次有蘇奴国 次に(愛知県曽野か)が所在。
次有呼邑國 次に呼邑国(山梨県甲斐か)が所在。
次有華奴蘇奴國 次に華奴蘇奴国(石川県金沢か)が所在。
次有鬼國 次に鬼国(和歌山県紀伊)が所在。
次有爲吾國 次に為吾国(三重県伊賀)が所在。
次有鬼奴國 次に鬼奴国(群馬県毛野か)が所在。
次有邪馬國 次に邪馬国(京都府山城)が所在。
次有窮臣國 次に窮臣国(新潟県越)が所在。
次有巴利國 次に巴利国(兵庫県播磨)が所在。
次有支惟國 次に支惟国(岡山県吉備)が所在。
次有烏奴國 次に烏奴国(岡山県宇野)が所在。
次有奴國 次に奴国(福岡県那の津)が所在。
此女王境界所盡 この奴国は女王国の境界の最も外れにある。
という記述があるのですが、基本的に中国語(漢語)は今でも使われる同じ文体であり、そこに本当の歴史の深みを感じています・・
そして有名な「倭国大乱」の記述。
「三国志「魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)
「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」
其の国もまた元々男子を王として70 - 80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わした。成人となっていたが、夫は無かった。
「後漢書」卷85 東夷列傳第75
「桓 靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」
桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。
有名な三国志にあるように、魏の曹操は中国全土を行き来し、既にシルクロードから来た商人とも交易をしていた時代です。
当時の日本はまだ弥生時代であり、日本国内各地域での利益・権力を有する地元の権力者たちが有利な政を行っていた時代だと思います。
そうして、日本人は元々文字を持たぬ民であったために、そのこと故に日本人は日本人同士でも「意志疎通に揉める」という今でも続く感覚があるのはその名残だと感じています。
私は、こうした歴史的事実から踏まえて、こうしたところや、普段からの意見交換などを積極的に行うようにしています。
冷静に考えてみれば今でも、毎日職場や学校や家庭内でも日本人同士で普通に「意志の疎通」が図れないところが多く、
そんな状態で歴史の長い中国への国際感覚から配慮のできる「日本人」は今でも政財界を含めて少ない事実を確認します。
私の今更ながら、感想で思うと、大体が日本サイドの勘違いや想像を大きくし過ぎで、いつしか日本の政財界での自身での有利な利権ばかりを考える人達が、
中国政財界に敵対意識を持つようになり、そういった視点からばかり想像して報道が動いて、多くの日本人たちが、それを鵜呑みにして、
中国の方々に、こちらから勝手に気分を害して「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」を増長して応対をするようになり、
当然相手サイドも気分を損ねて、ここ数年によくある日中間の摩擦になったように感じています。
私が感じるに、本当に日本人なら日本の「美徳」である、謙虚な立場で冷静に応対すべきだと感じています。
いつしか今は、日本人であって日本人でない人が日本には多くなった印象を持ちます。
しかしながら振り返れば、それは倭と中国側が名付けられるまで名乗りのできなかった古代の日本とさほど今も本質的には変わっていない部分もあると思います。
そういうこともあって、私達の活動では「民間」での文化交流を重要視して行い、相互間の歴史長い「一衣帯水」の関係を大事にしています。
中国の言葉に「水を飲むときに井戸を掘った人のことを忘れてはいけない」とあります。
それぐらい歴史の重みは重要だと感じます。
(※今は「水を飲むときに井戸を掘った人のことを忘れてはいけない」と言ったら、何で~、ペットボトルで何処でも買えるじゃん。とか言われそうです・・)
そして、この戦後70年の間には国際連合(英米仏中露)の5カ国が国際社会の影響力を持ち、東西冷戦などを経て今日まで迎えています。
現在は、皆さんも既にご承知のように新たな国際秩序作りが始まっています。
日本は立場上、米国政財界の考える秩序の下に日本の政財界が政策を作り、わかりにくい単語や複雑な内容の構造になって私達の日常生活の中で目にする報道となっています。
(※ひと言でいえば印象操作、本当はシンプルに言いたくても普通世間に誰しもが知られる内容は、その時点で誘導されていると思ったほうがよいです)
正直なところ、今後は米国政財界の思惑で日本の政財界の方向性を決められていくと思います。
(選んでいるようで、選ばされているという表現が妥当でしょう)
日本は、またこれからも倭国大乱が待っているような気がして、治にいて乱を忘れずの精神で、
私自身は好きな中国との交流を大事に、日本国内で何があっても安泰でいられるように精進をしていきたいと思います。