多摩川


室生犀星さんのうた、「ふるさとは遠きにありておもうもの」

ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの

よしや
 
うらぶれて 異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかへらばや 遠きみやこにかへらばや


今日は、以前から考えていた、自分の生まれ育った町、故郷の「狛江」へ、

今日の1日をかけて、自転車に乗りサイクリングがてらで帰郷してみました。

日本国内における中国武術の専門的な普及活動を実現させたいという想いと念願がずっとあって、老舗スポーツクラブでの指導の仕事に来ていた、この横浜の地へ地域密着型で武術活動拠点を行おうと考え、通勤も面倒になったこともあって15年前に転居しました。

武術のスポーツ競技選手時代での「東京都」所属という立場と、仕事として、新たな一勢力としてでの活動というのは「首都、東京」という存在での「考え方」に合わなくて、

横浜の地は私にとても合っていて、転居して2年間ほどで、もう自分の目指した理想の実現へと近づくことができました。

それからというもの、日々に一所懸命で、

気付けば、こんなにも「長い時間」が過ぎていました。


距離は、横浜市港北区から川崎市高津区をまたいで、大田区の田園調布、世田谷区、そして我がふるさとの狛江市・調布市でした。

電車の駅では、大体15駅ほどぐらいになると思いますが、途中いろいろと懐かしい景色が眼に飛び込んできて、思い出したり、考えたりしているうちに、

辿りつき、とても新鮮な有意義な時間になりました。

狛江~調布市周辺には、小田急線の成城学園駅近くに「東宝撮影所」があり、

調布には「日活撮影所」「大映撮影所」があり、

小さな頃から、多くのテレビや映画の撮影シーンを見ていました。

部分的な撮影シーンでは「水戸黄門」「男はつらいよ」がよくあって、

狛江が舞台になったテレビドラマには、

「岸辺のアルバム」 - 1974年の多摩川水害が物語の根底。

「3年B組金八先生」 - 金八先生は、足立区に赴任する前は世田谷の中学に勤務していて狛江に住んでおり、1作目の第1話では狛江駅のホームでロケ撮影。

「太陽にほえろ!」 - 小田急線・多摩川鉄橋下付近の河川敷は第81・92・223・406・454・463話ほか度々ロケで使用されたほか、野崎刑事(長さん)は"多摩川沿いの団地"に居住の設定。

その他、大場久美子さんの「コメットさん」

コメットさんのシーンで、よく出てきた公園の噴水は今も健在。

コメットさん 噴水

中村雅俊さんの「ゆうひが丘の総理大臣」




「あばれ はっちゃく」




「池中玄太80キロ」



その他に中学校の後輩のお姉さんの事実が作品のテーマになった「翼は心につけて」

そのテーマ曲は「翼をください」




そしてコミックでは「ツルモク独身寮」 がありました。

当時の自分の感覚には、どれも「フィット」するものばかりで、何か他人事だと思えないことばかりでした。


狛江は今から25年前に、住んでいた家が市の計画があって立ち退きに合い、府中市へ転居することになりました。

兄家族たちは今でも府中市に居ますが、私は府中市に馴染めず、8年ほど住んでから今の横浜へ移りました。

それから、今の狛江には、家族兄弟親族は誰もいませんが、自分の生まれ育った町の「狛江」のことを想うことはよくありました。

そして時折は休みの日に、バスと電車を乗り継いで狛江へ行き、徒歩でその時に思い起こす場所を尋ねて、ふと自分の思い出を振り返ることをしていましたが、

今日は、念願のサイクリングで丸々1日を費やし「狛江」に帰郷し「想いのある地」を巡りに巡りました。

今日は行きは、試しに横浜市港北区から、川崎市の高津区の武蔵新城方面から武蔵溝の口を通り、多摩川沿いに狛江を目指しました。

横浜市から川崎市へとこのコースで行くには、ひと山を越えるのに、結構頑張りました。

多摩川へ着いた時は、汗だくだくになり、いいトレーニングでした。

登戸へ着いて、多摩水道橋を渡る時には感動の想いがありました。

狛江市に入ったら、もう懐かしい景色のオンパレードで、自分の足で何処へでも行ける心地があると楽しくなるのが判りました。

多摩川を渡って最初に和泉多摩川駅があり、同級生の家が理髪店で、何気なく覘いたら「お母さん」が相変わらずに仕事をしていました。

それから母校の中学校へ行き、その周りの自分が帰り道に悪友たちと道草を食っては、世の理不尽を語り合っていた思い出の地を訪ね、当時の思いを馳せました。

そして、狛江駅前。

昼飯にと考えていた鰻屋さんは休み、残念・・

ついでに、いくつかまだ残っているお店を探訪・・

そして中学生から武術を学ぶための費用の捻出にと、新聞配達をして稼いでいた「専売所」はなし。

それからの通り道がてらに、同級生の家のやっている肉屋さんの前を通り過ぎた時に、立っている主人の顔に、ふと「見覚えのある顔」

すぐに自転車を降りて、お店に入り主人に向かって「私は成澤と申しますが・・」と聞いてみたら、

「おお、懐かしいな!」とすぐに気付いてくれて、短い時間の中でしたが互いの「今まで」を語りました。

年に数回は、悪友たちと飲み会を企画しているようで、今度は誘ってくれることになって何かとても嬉しく思いました。

「そうか、みんな、それぞれに頑張って生き抜いているんだな・・」

何か、今まで「止まっていた時計の秒針」が動き出したような感覚です。

高校まで一緒で巨体で豪快だった奴が「パティシェ」になったことや、駄菓子やの息子や工務店の息子。

いろいろと懐かしい思い出です。

自分が狛江に住んでいた時期、1969年生まれなので、1970年代~1990年までは、高度経済成長期で非常に賑わっていた時代でした。

私の父は調布駅前のビルに店を構え、途中で市議会議員候補を目指すようになり、母は地元の商店街で美容院を経営していました。

同級生の多くは家が商店街のお店であり、電気屋さん、弁当屋さん、魚屋さん、布団屋さん、ラーメン屋さん、八百屋さん、パン屋さん、お茶屋さん、スーパーの経営者、

いろいろとありました。

しかしながら、今はなくなったものも多く、時間の流れを感じます。


自宅跡


それから、かつて住んだ自宅付近へ移動しました。

私の住んだ家付近は、狛江市と調布市の真ん中で、3分ほど歩けばそこは「調布市」でした。

私が生まれた病院、幼少を過ごした団地の家、保育園、小学校、中学校。

夏祭り、秋祭りの神社、市民プールのあった付近で「つげ義春」さんが描いた地域。


京王多摩川


今日は、懐かしい場所を自転車でグルグル回り、とても楽しくて、何かしら小中学生の時分の時のような感覚でした。

今から想うと、日本の行政システムというのは、

通学する小学校地域では「半径500メートルの居住空間」

中学校だと「1キロメートル」

高校では、私の場合は「狛江市」「調布市」「三鷹市」「稲城市」と「5キロメートル」という感じで広がるのだな、と解りました。

今日は、今の自分自身の感覚から、

思い出を辿ると、懐かしくて、健気で、すべてを愛おしく想いました。

25年前にこの町を離れ、

中国との繋がりが深くなり、「日本人らしさ」を忘れていました。

今日は一日。

朝から戻ってきた夕方まで、

「自分自身の原点」を、ずっと思い考えて、時間を過ごしました。

西河原公園

五本松




自分は「この町」を離れたことで成功し、

しかし、何かしら「寂しい思い」があって、

それが「何か」なのかが解りました・・

人生、「人:ひとそれぞれ」

短所、長所も「人:ひとそれぞれ」

親兄弟、師匠、師兄弟、

それも「人:ひとそれぞれ」

それぞれに元気で、何かと「幸せ」であれば、それでいい。

全部が全部満たされる、なんて有り得ない。

何かを失い、何かを得て、

そして、また「何か」を探し求めて、自身の人生に良かれと、こそ気持ちを引き締めて頑張って生きていく。

それでいい。

何か、とても意外なことでしたが、

これからの未来に大きな励ましを頂きました。

ある言葉の中に、

故郷とは、その町が「自分」を憶えてくれている、そんな「場所」をいう、というのは正しいと実感しました。

我が故郷の「狛江市」「調布市」

有難う御座いました!

またお伺いしますので、よろしくお願い致します。