


先週の火曜日の午後に高倉健さんの訃報を知り、とても残念な想いが起こり、それから私が好きな健さんの映画をいくつか見て、この1週間を過ごしました。
中国政府の報道官もすぐ様に高倉健さんへの「哀悼の意」を表明してくれて、何か昨今、日本と中国の間で何かしらとバランスが取れないのですが、
こうした文化面で相互間の敬意ある意識交流はしっかりとしてまだまだ続いていることに嬉しく感じました。
そこで映画「君よ憤怒の河を渉れ」が、日本でも中国でも共有認識として素晴らしいと感じる理由について考えてみることにしてみました。
その中で先ず、多くの普通の一般日本人の持つ意識感覚の中で「連帯感」重視というものについて考えてみました。
中国大陸は今現在人口が更に増え続けており、少し前までは13億5千万人という数字だったのですが、最近ではもう14億人というカウントになっています。
世界一の人口を持つ国なので「連帯感」より「個人主義」の方へ、意識は当然に重きをおくようになり、日本人は「連帯感」の方へ意識に重きをおくようになる文化的な違いがあると思います。
日本人の連帯感というのは長所と短所の両面があって、長所としてはおそらく稲作の伝来があって季節の初夏の同じ時期に田植えを行い、秋の収穫を一緒に行う長い生活環境の習性から来ているように思います。
そのことが共同意識での連帯感を生み、長所としては、みんなで一緒に力を合わせ、一緒に行動を起こし、共有財産としてでの共感を大事にするようになるのだと思います。
そういうこともあって、日本国内には全国に稲作が広まり、みんなで米食文化を共有できた歴史も関係していると思います。
そのためには反面として、個人での強い「自我意識」や「判断力」というものが、育ちにくい環境にも短所になっていたと思います。
そうなることで、みんなが同じ意見・同じ考え方、みんなで行動、が普通になり過ぎて、
個人では、行動を起こすことがないために、個人で物事の判断を考えられず、
行動することができない傾向になっていくように感じることがよくあります。
それが感情的な意識で「同様にならない意見を持つ人」を反逆者と捉えて考えてしまい、
そういう人を「自分勝手」「我儘」「非協力者」「独裁者」のように逆に非難を浴びせる行動に出ることもあるようです。
私自身も何度か、そういう目で見られたことはたくさんありました。
私は実際の経験の中で感じたことですが、
最近は、太極拳の指導の中で途中に「お一人おひとりで自分は何をやるべきか、を考えて練習しましょう」といって練習時間を設けます。
そうなるとすぐに「どうしよう、どうしよう」となりやすく、
すぐに横へ「何をやる、どうする」と人へ聞き、一緒に考えてから、しばらくして相談してから「では、一先ずこれを一緒にしましょう」となって、
そこから練習ができるようになります。
しかしながら、一人で完全に、というところへはまだ少しですが、そうして行っていくうちに、少しずつでもひとりの意志で行えるようになっていくので、
やはり訓練だと思います。
本場中国でのトレーニングは全員で行いながらでも、個人個人の個性を高める指導になっているので敏感な自覚や判断力や分析力がないと上達できないシステムなので、
私はこうした中国の訓練形式から学び、日本人の自分でもすぐ中国式に馴染めるようになりました。
しかしながら日本人は時折、個別でもひと度「感情的」になると、自分で抑えが利かなくなる場合があり、
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」となっていく傾向もあり、無茶な百姓一揆を起こすとか、そういうところにも繋がっていったように思います。
そうなると昨今の日本人の感情論は凄まじく、何か報道で中国の悪いニュースが流されると「中国~!」となりやすく、
中国という国は、面積は日本の26倍の国土、人口は14億人。
歴史文化も5千年で日本より3千年以上も長いので、一部と全部は別なので、文化や経済、
そして直接はあまり人的な関係ではない政治的問題とは、きちんと整理して分けて考えられる余裕が国際社会経済的には中国よりもずっと早くスタートしていた現代日本人の全体には国際人感覚として欲しいと思います。
そして、現代文明病ともいわれる「生活習慣病」になりやすい体質になってしまう人が深刻な数になり増えてしまった背景にも実は、こうした個人的意識感覚とは関係していて、みんなが気付かないと誰も気付かないで、
みんなが行動を起こさないとみんなが行動を起こさないので、最悪はみんなが、病気になってから、そこでやっとみんなが気付く、という側面にもなってしまっている現実があります。
それに流行も同じで、みんなが興味を持たないとみんなが興味がなくて、みんなが興味を持つと判断なく、みんなが興味を持つので、これらもかつての「捏造ダイエット食品の販売情報」のテクニックにみんなが多く引っかかった事実も実際にたくさんあったので気を付けたいものです。
「君よ憤怒の河を渡れ」は、中国タイトルでは「追い詰めて、捕らえる」という意味での「追捕」
中国では日中国交正常化後1980年代に中国全土で放映され大好評で何度も再上映され、高倉健さんと中野良子さんの人気は今もまだ絶大なものになっていて、現代での若い世代の皆さんも好きな方が多い事実があります。
私も「君よ憤怒の河を渡れ」は大好きで、この1週間の間に何度も好きなシーンを繰り返し見ていました。
そうするうちに、この映画においてでの、日本人も中国人も共感する「素晴らしい何か」を分析してみようと思い考えました。
この映画の「テーマは何だろうか」ということを先ず考えてみて、それは「本能的直感」を信じるというものがある、と思いました。
この検事の杜丘さんは最期の最期まで意志の力を貫く、精神力と体力の両面を持って「やるべきことを見つけ、やり遂げます」
これは人間の生き方や行動として最も重要で、現代日本社会の人間の多くに置き換えてみると、どうなのだろうか、と思うこともあります・・
先ず、この映画は検事の杜丘さんが冒頭でいきなりある事件の捜査中に、冤罪を仕掛けられて逮捕されるところから始まります。
そして「これは何かの間違いだ」と堂々と取り調べを受けてるうちに「誰かに、罠に嵌められた」ということに気付き、咄嗟に様子を見て逃げ出します。
ここでも大事なことは、人の話を「ボーッ」と聞いているのではなく、状況がおかしいと感付いては、そしてそこからも何とかチャンスを見計らっては速攻で脱出し、大勢の追っ手から逃れ、
自らで早く潔白を証明しようと考え、すぐ様に、単独で行動を起こし始めたことです。
そこで調査をするために移動の資金を自身のもので用意し始め、一つひとつ冷静に分析し、小さな可能性の追求から行っていきます。
そして調査途中に、生命までも見知らぬ2人の刺客に狙われても、逃げ延びます。
落ち着いた時に、何故にこうした状況になったかを考え、ある捜査事件に不可解な疑問があることで、予見したところから直接個人で調べ始めたことが原因の発端であるのだろうと割り出します。
そこで、罠に嵌めた人物に確信を持ち、直接探し始め出します。
そして最期まで可能性を信じて、己一人の力を過信せず、山の中でも都会の中でも確実に信じて実行します。
ここでやはり大事なのは「本能的直感」が「無」で、みんながみんなで行動して、同じ考えになったのは、
容疑者としてのしつこい報道で警察庁での部下だった「原田芳雄さん演じる、矢村警部」も一般市民も同じで、熱血漢の捜査をする「杜丘検事」が必ず犯人で、誰も何も疑問に思わずにいた、ということでした。
「本能的直感」で杜丘さんが犯人ではないとすぐに見抜けたのは、妄想性人格障害者の理想的スタイルをかました水沢恵子のアパートの管理人さんと「中野良子さんが、演じた真由美さん」と、「倍賞美津子さんの演じたホステスさん」の3人だけでした。
他はみんながみんな冷静になれずに、ずっとヒステリックを起こし「杜丘が犯人だ~」となっています。
杜丘検事は追われながらも北海道を単身で脱出し、東京の立川へ辿りつき容疑者の居所を突き止めて、一人で潜入します、
そして薬で廃人にされた容疑者を見つけますが、共犯の医師から薬物を飲まされ廃人にされるところでも危機を脱出し、共犯者の医師から自白を促し、
真犯人を突き止め乗り込みます。
ここらでようやく警察は、不自然すぎることの連続で冤罪に気付き、真犯人を見つけ逮捕しようとしますが、逮捕直前で逃亡を図ろうとし、
警察では捕まえられないところで、杜丘検事は自身を追い詰めて苦しめた真犯人を自己責任の中で自らの手で仕留めます。
無実は晴らされますが、しかし仕事を失い、迷惑を蒙っただけなのですが、最期でもまた新たな希望を持って次へと進むような展開で映画は終わります。
この映画で描かれる杜丘検事は、必ず自分で考え、全て責任を持って、生命をも賭けて、最期まで「精神力」と「体力」を持って意志を貫き、
具体的根拠になるものを確かめ、供述を取り、証拠を探し出し、
依頼した協力者ではないのに以心伝心で連携の行える「協力者」も自然体に出来て、そして「やるべきこと」をやり遂げました。
現代の日本社会では、場当たり的、思いつき、で曖昧で抽象的な感覚でやっているように感じる人達などの実際にやっている行動とはどうなのだろうか、なんて思うことがあります。
そして映画の中には、たくさんいいセリフ:台詞がありました。
好きなのは、
「矢村警部:俺は、誰も信じない」
「杜丘検事:俺には、やらなければならないことがあるんだ」というものや、
その中でも、一番印象的なのは
「杜丘検事:法では、裁けない悪がある」というもので、
この映画は38年前の1976年制作の作品で、私はまだ小学校1年生で思えば今の兵法剣術の基になった剣道と水泳を始めた年。
おそらく当時の日本の政財界の裏側にあった事件の問題をモデルに描かれた、ように感じています。
そして様々なシーンで示唆される中では、これは実は今の現代社会のあちこちにも、この名残りが結構ありがちなのでは、というような関係での事件にもあって、
実は「話はフィクションだけれど、実は報道に隠された中で、こういう似たようなものは世間一般にたくさんある」ということを記録して後代にも教えてくれているように感じます。
そして映画では、ここで終わりますが、実はおそらくまだ話の様子を探ってみれば「西村晃さんの演じた真犯人」は善良な検事であり、罠で罪のない犯人にでっち上げられ生命も狙われた「杜丘検事の手」で射殺されますが、彼を操る黒幕たちがあり、
戦後にドサクサに紛れて成り上がった成金たちの日本政財界の権益を得るためなら国民を何人も犠牲にしても厭わないような連中が本当にたくさんいて、それが国際組織から日本へもたらされたエージェント:代理人の第1号ぐらいのだったのかも知れません。
今現在にも、7~8年前にあった耐震偽装マンション販売で、先の震災で倒壊していたら、どうだったのか。
効果のない偽物の「インチキ健康法」や、一流大学教授や研究者の発表して、後に根拠のない「捏造データ」問題。
そして続出して大きな問題化になって発覚するまでには全てが「正論とされていた論文」
病院や医師に関係する、医療問題、製薬会社との癒着問題、生活習慣病の原因は輸入飲食物、が原因という事実の発覚。
保険金詐欺、不動産、証券など金融関係でも起こるリーマン・ショックなど投資詐欺の数々・・
犯人側組織は、場当たり的、思いつき、で曖昧で抽象的で無責任で、問題を人になすりつける感覚。
杜丘検事は、伝統日本人らしく、誠心誠意を持って、常に冷静で物事の分別、要不要を考えては自己責任をもって行動的なアクションを自発的に連続して行っていく凛々しい姿。
現代日本社会にありがちな、問題解決ができずいつもダラダラと続き不快な感じと違い、
ここでは、数々の問題を起こした元凶と人物を確実に具体的に突き止めて、スッパリと「ケリ」をつけて解決をする「時代劇」的な心地良さを実感します。
素晴らしい国際的な日本人として誇りある「高倉健さん」という方、が真心から、魂からの想いで「杜丘検事」を熱演し、日本人でも中国人でも関係なく作品の中から「男として生きる」というエールを、それこそすべての「みんな」へと送り、
誰もがその姿や魅力、話の内容へと引き込まれていく、これも心清き人間の成せる国際的にレベルの高い芸術だと思います。
中国は、これらは言葉も異なる作品ではありますが、おそらくファンは日本の人口ぐらいいるのでは、なんて思うほどたくさんの中国の皆さんたちが長く高く評価して好意を持ち続けてくれているということは日本人として、とても嬉しく思っています。
世界には、いがみ合いばかりが延々とあちこちで続きますが、こうした東洋人の持つ美徳、美学を共有できる喜びというのは大事だと思います。
またいつかこれからも新しいかたちで、
「我が日本と歴史ある中国との友情や交流をいつまでも大事に頑張ろうよ!」
そんなことを私に、健さんからの励ましのように感じました。
高倉健さん本当にありがとうございました。
全編