
日本人で知らぬ人はいない「魏志倭人伝」の存在。
(※現代日本社会で有り得る可能性なら「何これ~、漢字ばっかりじゃ~ん。志と人と伝は読める~後は読めな~い、訳わかんな~い。ウケル~!とか言いそうです)
その内容を「Wikipedia」からの引用で確認をしてみましょう。
魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。
著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年(呉の滅亡)-297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。
これは「魏国」「呉国」「蜀国」の「三国志」で知られ、映画でも描かれた「 レッドクリフ 」
の「赤壁の戦い」時代の後の100年近く後に記述された内容だという歴史的事実です。
この『三国志』の中に「倭人伝」という独立した列伝が存在したわけではなく「東夷伝」の中に倭及び倭人の記述がある。
これはつまり、当時最大勢力を誇った「曹操」の建てた「魏」の北東アジア全体での勢力が大きかったことから、こうした史書が生まれた背景が判ります。
倭と魏の関係 卑弥呼と壹與
元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こった(いわゆる「倭国大乱」と考えられている)。
そこで、卑弥呼と言う一人の少女を女王に共立することによってようやく混乱を鎮めた。
卑弥呼は、鬼道に事え衆を惑わした。年長となったが、未婚であった。
弟が国政を補佐した。王となって以来人と会うことは少なかった。1000人の従者が仕えていたが、居所である宮室には、ただ一人の男子が入って、飲食の給仕や伝言の取次ぎをした。樓観や城柵が厳めしく設けられ、常に兵士が守衛していた。
卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していた。
正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、100人が殉葬された。その後男王が立てられるが人々はこれに服さず内乱となり1000余人が死んだ。
そのため、卑弥呼の親族で13歳の少女の壹與が王に立てられ国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。
何かしら、現代にまで続く、伝統日本文化に関係していることが判ります。
魏・晋との外交
景初2年6月(238年)に女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣して天子に拝謁することを願い出た。
帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。
12月、皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与え、難升米を率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為した。
景初3年1月1日に12月8日から病床についていた魏の皇帝である明帝(曹叡)が死去。
斉王が次の皇帝となった。
正始元年(240年)に帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らを詔書と印綬を持って倭国に派遣し、倭王の位を仮授して下賜品を与えた。
正始4年(243年)に女王は再び魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、奴隷と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将と為した。
正始6年(245年)、皇帝(斉王)は、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜するよう詔した。
しかし同年からの濊との戦いに続く韓との戦いにおいて、太守弓遵は戦死しているため、実行されていない。
正始8年(247年)、新太守の王(斤+頁)が着任する。女王は載斯烏越を使者として派遣して狗奴国との戦いを報告した。
太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣したが、この派遣は同年の倭の報告によるものではなく、正始6年の詔によるもの。
女王位についた壹與(正始8年の派遣の時点で既に女王が壹與である可能性がある)は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
また、『日本書紀』の「神功紀」は、晋武帝泰初二年泰始2年(266年)の晋起居註に泰初二年10月倭女王が重ねて貢献したとの記述があるとしている。
魏書陳留王紀によれば、この年、禅譲に先立ち東夷が朝貢したという記事があるので 、この女王は壹與と考えられている。魏に代って成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したものと考えられる。
倭人のその後
3世紀半ばの壹與の朝貢の記録を最後に、5世紀の義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)まで150年近く中国の史書からは倭国に関する記録はなくなる。
この間を埋めるものとして広開土王碑がある、碑には391年に倭が百済、新羅を破り、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)と戦ったとある。
邪馬台国までの行程と倭国の様子より、
「邪馬台国は何処か」という議論が一般日本では好まれますが、私は魏国の使者の見た、当時の「日本:倭国」の風俗において現代日本人にも通じるところに関心を持っていますので、その興味あるところを転載して紹介します。
男子無大小、皆黥面文身。
「皆黥面文身」というように男子はみな顔や体に入れ墨し、墨や朱や丹を塗っている。
今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。
今、倭の漁師も好んで水にもぐって魚や蛤を捕り、身体に入墨をして大魚や水禽を避けていたが、後には飾りになった。
諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。
入墨は国ごとに異なり、あるいは左に右に、あるいは大に小に、階級によって差が有る。
其風俗不淫。男子皆露紒、以木緜頭。其衣橫幅、但結束相連、略無縫。婦人被髪屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。
その風俗は淫らではない。男子は皆髷を露わにし、木綿の布を頭に巻いている。
その衣服は幅広い布を結び合わせているだけであり、ほとんど縫われていない。婦人は髪に被り物をし後ろで束ねており、衣服は単衣(一重)のように作られ、中央に孔をあけ、貫頭衣である。
↑これ今も本質的に基本は変わっていないのかも(爆笑!)
倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。
土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。
↑九州のように感じる、やはり宮崎、鹿児島を私は予測します。
有屋室、父母兄弟臥息異處。以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。
家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は高坏(たかつき)を用いて、手づかみで食べる。
↑この時の日本には、まだ「箸」が無かった、ということ。
其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘曰。當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、擧家詣水中澡浴、以如練沐。
人が死ぬと10日あまり、哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
其行來渡海詣中國、恒使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人。名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。
倭の者が船で海を渡る時は持衰(じさい)が選ばれる。持衰は人と接せず、虱は取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
其會同坐起、父子男女無別。人性嗜酒。見大人所敬、但搏手以當脆拝。其人壽考、或百年、或八九十年。
集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。人は長命であり、百歳や九十、八十歳の者もいる。
↑これはすごい「事実」
当時の約2千年前での日本は元々長寿国である、という事実が歴史史書に書かれていること。
現代日本社会構造がいかに、歴史的事実や、倫理道徳をないがしろにしたことが「生活習慣病」体質人を作ってしまった、ということを知りましょう。
不盗竊、少諍訟。
盗みはなく、訴訟も少ない。
↑これも素晴らしい。しかしながら、今の日本は・・
尊卑各有差序、足相臣服。
宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。
↑これは判ります。
今リアルタイムで世界が大きく動き始め、この300年ほど「欧州」「米国」が珍しく活躍できた時代であったのであり、
「これからはアジアが、今後数百年間の発展と繁栄を取り戻す」
という、中国、インド、ロシアの国際政財界に通じる方々がコメントを発していますが、
私も「その通り」だと思っています。
これからの日本もまた「倭国大乱」になりそうですが、
私は、ここぞと今までのやってきた仕事の質ゆえに、大いに優位に立って頑張れる実感を持っています。
「いざ!」