
ここ数日の間に、感じたことの中で、華道界と武術界は、もの凄く似ていることに気付きました。
今後は、益々私自身も華道界を学ぶことで、日本での武術項目、太極拳各種、健身気功の発展と繁栄に役立てられると直感で、理解が出来ました。
人の縁というのは有り難いと思います。
ありがとうございます。
草月流 花伝書より、
一部抜粋
花で人間をいけるので、
人間が花をいけるのではない。
つまらない いけばなが 多いのは やむをえない。
この蒼風先生の文を読んだ時に、まさしく言い得て「妙」と感動しました。
日本で行われている、中国武術項目全般でも、まったく同じことで、
同じように例えれば、
武術が人間を活かすので、
人間が武術的な技能を行ったと、していても、
「技も心も魂も、武芸として活きて、生きていなければ」
ただの「動作」を行っているのでしか、ないのである。
つまらない武術的動作の連続ばかりだけ が多いのは やむをえない。
こう直感で、私も思いました。
そして、日本は元々伝統的に、文化的傾向で、こうした性質が共通することを認識できたことは、今後の私達の活動でのヒントには大きなチャンスになったことを感じています。
そして、更に「花伝書」より、
自然の花の中から いけばな という 別な花が咲くのだ。
別な 花 が咲くという、そのことが大切なのだ。
いけばな のために、技が必要なのは いうまでもない。
技と工夫とを、こらしに こらして いけばな をつくるのだが、
さて技を見るのではなく、工夫を見るのではなく、
やはり、
花 を見るのだから、心得ねばならない。
花 を逃したら、おしまいなのだ。
いけばな という 別の花 が、どう美を宿しているかが問題でもある。
日本における、中国武術項目、太極拳、健身気功の活動で、
ここに、すべてという、すべての「答え」が凝縮していることに、
気付ける人は、気付かねばならない、と思うのです。
国内での競技会などを企画運営し、イベントを運営し、
あちこちで様々な企画を行ってはいますが、
最終的に、全国1億2600万人ある日本民族の性質での感覚では、
この伝統ある美しい日本列島の四季の風土や感覚を直感でみんながみんな実は理解をしていて、評価対象における基準の根本というのは、
「花」
が一番すべてを象徴している事実と歴史文化を知るべき、と感じています。
格闘的技法、それを英語では「Martial Arts:マーシャルアーツ」と呼んでいます。
(※かつて、ある方で現在は組織での結構いい位置で役員をやっている人で、アーシャル・マーツ アーシャル・マーツ と連呼して、それはマーシャル・アーツ!?と問いただしたら、まぁ、そうとも言うな、と言ったコメントは、何かしらすべてを象徴していたかな、と今から感じます。
ちょっとした言い間違いは誰でもありますが、伝統日本文化における人間でポジションによっては、あまりにも低質レベルなところでやられるとやはり「知性」は疑われると思います。
エベレーター、エベレーターと言っていて、それはエレベーター!?と聞いたら、そうとも言うな、というレベル)
つまりは、「格闘としての行う中で、での芸術的追求」
最終的に人間は、目口鼻耳、そして触覚の5感があり、最終的には「直感:第6感」で、感じるか、感じないか、が一番重要で、
それを「芸」とします。
芸とは「美」がすべて、
「美」の確立なくしては、「美学」も何もないのです。
「美」あってこその「美学」「哲学」「理論」が生まれ、その程度によって評価を受けられるのです。
最終的に私が個人的に感じるには、
すべてがすべて、日本の美は、
「花」
があるか、ないかだと思います。
この時に、私は思うには、島崎藤村の歌。
まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の花ある君と思ひけり。
男性の感じる「花」
女性の感じる「花」
は異なると思いますが、私は逆説的に、この藤村の感じた女性像があり、
その女性像が感じる、男性への「花」を思う時があります。
大和魂、武士道、日本男児。
現代日本社会。
いろいろとありますが、変わらぬ自分自身の遺伝の中にある、
日本男児としての「花」
それを、出せるか、出せないか。
それも「芸」
そんな想いを感じます。