「花伝書」より、

いけばなでは、実に、切る技巧を多く使う。

切って、切って、切って、切って、つくる。

次に使う技巧は、曲げる。

曲げるのは曲線をつくるときだけではない。

直線をつくるにも曲げる技巧がいる。

根本にもう一つ、留める技巧がいる。


自分の人生で、思うと、

「祖国日本」

そして、私達の生活全般に関係する運営する組織の、

「日本行政」「日本企業」があります。

私は日本人でありながら、縁あって、中国武術を生業にし、武芸者であり、芸術に身をやつす者になりました。

「芸」こそすべて、と考えるのが私の立場。


「日本行政」「日本企業」という存在で、彼等側の立場の人間の眼からからすれば、

で常に「働け、働け、働け、働け」となり、

従業員の立場からは、ならば「金、金、金、金」と求めるようになる・・

私は、この時点で既に「異端児」


行政や企業家からは、

切られて、切られて、切られて、

そこで「私」は「つくられた」


そんな私を中国の先生方は、性格や心の拗けて曲がった私を、真っ直ぐに直してくれました。

20代ぐらいのバブル期絶頂の時代に私は日本に居場所がなく、

中国武術の老師・先生方は根本をつくってくれて、留めてくれました。

ふと今、あれから25年近く経ち、0歳は20代になり、20代は40代になり、40代は60代になりました・・

思うことが多々あります。


「語録 指先のわざ」より、

枝を曲げる秘訣は、曲げるのではない、折るのだ、ということである。

折るまい、折るまい、と思っていると折れる。

針金が入っているわけではないから、くねくねと曲がらず、すぐに折れる。

折れていいのだ、折るまいと思わずに、

はじめから折るつもりで、

どんどん折ってみる。

これは上手な曲げ方を会得する秘訣である。

折ってみるから、どのくらいの力なら曲がる、ということがわかるのである。

折れそうだから、もし折ったら大変だから、

そっとそのまま、

というのでは、枝を曲げる妙技は出てこない。

折って、折って、

そして曲げる技巧をつかむことだ。


自分の武術修業や、日常の様々で、

「自分自身」のことならば、自己責任なので、

確かに勅使河原先生の言う通りに、どんどん折って、どんどん曲げて、

「自分自身の肉体も精神も、どんどん壊れるまで壊してしまってもいいや」

そんなことをずっと思ってやってきていました。

ですから、いつも「ああ、またやっちゃった・・俺って馬鹿だな・・・」

そんなことは今でも普通でした。


この2日間、この先生のお言葉で、感じたことがありました。

今回感じたことで、「切る」と「折る」

こういう感覚が一番難しいことを実感します。

私は、自分自身で自分自身を「切る」「折る」は平気でしたが、人に対してはできませんでした。

ふと思えば、国会議員を含む行政職員や企業などの組織の人達は自分自身は「切らない」「折らない」

自分以外には簡単に「切る」「折る」を平気で、最初からやるようになって、それから間違いなく「そういう人間」になっていったように感じました。

そう、だったから簡単に自分のような人間は「切られた」し「折られた」

当然にそういう感覚の人間は「切られて」当然、「折られて」当然、と考えるのだと思います。


現代日本ストレス社会、誰も信用できない人間関係。

今年に話題になった、病院、医療、医者、クスリの問題。

雑誌のサブタイトルには「医療はビジネス、医者は商売人」「病院に騙されてはいけない」


「何を信じたらいいか、判らない」そんな言葉を大勢の方から聞きました。

私は、元々彼等のことなんか何も信じてなんか、いないし、世話にもなってはいないし、

心身には健全で自信があり、多くの芸術を心から楽しめる人間になっていました。

何も怖いものなんて、ない。

今、こちらには力がある。


これからの祖国日本をよくしていくために、

勅使河原先生のアドバイスに従い、

こちらから、

切って、切って、切って、切って、つくる。

折って、折って、折って、折って、つくる。

きっと、いいものができると思います。