2014年の秋10月を迎え、私は中国武術界に入って満32年が経ち、33年めがスタートしています。
私は早生まれなので、6歳4ヶ月から12歳と3ヶ月まで剣道少年でもありました。2012年に中国武術30周年を記念に日本武道回帰ということで剣道を再開しました。
こうして数えると38年間の武術・武道歴になり、今までの稽古や学習、トレーニングの数々に想いがよぎります。
これは33年前の1981年の全中国武術観摩交流大会の映像です。
当時の日本国内では月刊空手道という雑誌に、香港や台湾、そして1978年以後の日中国交正常化してからは中国大陸を取材した記事が載っていて、それらをよく読んでは研究していました。
それ以外では、政治家のバックアップのある文化交流団体が日中交流活動の一環で北京市での24式太極拳、32式太極剣、48式太極拳、66式太極拳、88式太極拳の学習団があったり、
だんだんと陳式、楊式、孫式太極拳と伝統太極拳の学習団が出るようになりました。
私は29年前の1985年に高校1年生16歳の時に初めて上海へ入りました。
当時は文化交流団体の推薦状と10人以上でないとビザが下りず、所属していた太極拳協会の中での自発的に発足していた武術隊式トレーニングを行っていたメンバー仲間で訪問しました。
午前~午後は武術班式トレーニングを受け、空いた時間で武術隊を見学し、夜は伝統武術家の徐文忠老師の自宅の中で学びました。
この映像は1987~1988年に徐老師が2度めに長期間来日され、自分が付き人をしながら学んでいた時期のものです(1987年秋~王金香老師と妹さんが来日され4人でいつも盛り上がっていました・・我が師との思い出)
先ず街中で外国人は誰一人会うこともない地域へ入り、当時の中国大陸の生活風景を体感できた経験はとてもよかったと思います。
そして翌年1986年には個人ビザが降りるようになり、徐老師は江蘇省の出身でしたが武術拠点は安徽省で、当時政府方針では外国人は入ってはいけないという施設だった、
武術隊でも訓練を受け学ぶことが何度でもできました。それからは今現在にまで続く、民間交流をずっと続けてきました。
私は政府関係や行政組織とは無縁で、全部中国大陸との関係では、個人と個人の関係で繋がってきています。
ですから政府間や企業間の問題とは一切無縁で、親友と親友同士の関係なので、今までに危険な思いを感じたことは、
この29年間に1回もありませんでした。
1985年の1回目の訪問時でも3日めにはもう慣れて、バスに乗って手渡しでのチケット購入もできたし、買い物に不便もありませんでしたし、
冷蔵庫がなかったので1986年は常温の飲み物ばかりで日本の冷たい飲み物はちょっと恋しく思いました。
朝食にと道端の肉まん売りを見つけるのは大好きで、あるいは屋台で食べる時にワンタンかお粥かでよく悩み、
ショーロンポーは今よりも昔の方が冷凍保存しないから美味かったように感じます。
上海は自分にとって大切な街です。
1989年に安徽省武術隊での訓練後に初めて武術兄弟の渡辺成人さんが長期留学していた上海、復旦大学武術武術協会、武術隊で一緒に花妙林老師からも指導を受け、
そこから一人で来ても恩師、花妙林老師は自分が求めているものの実現化について、いつも相談に乗ってくださり、
武術指導も理論指導も、バリバリ上海人なので、上海の愉快で楽しいところを紹介してくださいました。
今はまた自分との縁の長い上海体育学院武術学院出身の韋剣くんも老師となって、私達の武術交流活動での最強パートナーになってくれました。
自分にとって、何か歴史的な転換点のきっかけになっていたのが、
「上海・・」
今年に行った上海での、武術研修・交流・観光ツアー(楽しくて、楽しくて仕方がない・・)
GW期間を使った5月の上海研修ツアー
春節に、久しぶりに、ぶらりと気楽な一人旅
東京出身の私が、気付けば移り住んでいて武術交流活動がいいかたちで行えるようになっていたのが姉妹都市。
「横浜・・」
思えば想うほど、日本に来てしていた孫文、そして魯迅さんと内山鑑三、太宰治との交流。
日本との歴史的な縁もあり、好きな街です。
私は早生まれなので、6歳4ヶ月から12歳と3ヶ月まで剣道少年でもありました。2012年に中国武術30周年を記念に日本武道回帰ということで剣道を再開しました。
こうして数えると38年間の武術・武道歴になり、今までの稽古や学習、トレーニングの数々に想いがよぎります。
これは33年前の1981年の全中国武術観摩交流大会の映像です。
当時の日本国内では月刊空手道という雑誌に、香港や台湾、そして1978年以後の日中国交正常化してからは中国大陸を取材した記事が載っていて、それらをよく読んでは研究していました。
それ以外では、政治家のバックアップのある文化交流団体が日中交流活動の一環で北京市での24式太極拳、32式太極剣、48式太極拳、66式太極拳、88式太極拳の学習団があったり、
だんだんと陳式、楊式、孫式太極拳と伝統太極拳の学習団が出るようになりました。
私は29年前の1985年に高校1年生16歳の時に初めて上海へ入りました。
当時は文化交流団体の推薦状と10人以上でないとビザが下りず、所属していた太極拳協会の中での自発的に発足していた武術隊式トレーニングを行っていたメンバー仲間で訪問しました。
午前~午後は武術班式トレーニングを受け、空いた時間で武術隊を見学し、夜は伝統武術家の徐文忠老師の自宅の中で学びました。
この映像は1987~1988年に徐老師が2度めに長期間来日され、自分が付き人をしながら学んでいた時期のものです(1987年秋~王金香老師と妹さんが来日され4人でいつも盛り上がっていました・・我が師との思い出)
先ず街中で外国人は誰一人会うこともない地域へ入り、当時の中国大陸の生活風景を体感できた経験はとてもよかったと思います。
そして翌年1986年には個人ビザが降りるようになり、徐老師は江蘇省の出身でしたが武術拠点は安徽省で、当時政府方針では外国人は入ってはいけないという施設だった、
武術隊でも訓練を受け学ぶことが何度でもできました。それからは今現在にまで続く、民間交流をずっと続けてきました。
私は政府関係や行政組織とは無縁で、全部中国大陸との関係では、個人と個人の関係で繋がってきています。
ですから政府間や企業間の問題とは一切無縁で、親友と親友同士の関係なので、今までに危険な思いを感じたことは、
この29年間に1回もありませんでした。
1985年の1回目の訪問時でも3日めにはもう慣れて、バスに乗って手渡しでのチケット購入もできたし、買い物に不便もありませんでしたし、
冷蔵庫がなかったので1986年は常温の飲み物ばかりで日本の冷たい飲み物はちょっと恋しく思いました。
朝食にと道端の肉まん売りを見つけるのは大好きで、あるいは屋台で食べる時にワンタンかお粥かでよく悩み、
ショーロンポーは今よりも昔の方が冷凍保存しないから美味かったように感じます。
上海は自分にとって大切な街です。
1989年に安徽省武術隊での訓練後に初めて武術兄弟の渡辺成人さんが長期留学していた上海、復旦大学武術武術協会、武術隊で一緒に花妙林老師からも指導を受け、
そこから一人で来ても恩師、花妙林老師は自分が求めているものの実現化について、いつも相談に乗ってくださり、
武術指導も理論指導も、バリバリ上海人なので、上海の愉快で楽しいところを紹介してくださいました。
今はまた自分との縁の長い上海体育学院武術学院出身の韋剣くんも老師となって、私達の武術交流活動での最強パートナーになってくれました。
自分にとって、何か歴史的な転換点のきっかけになっていたのが、
「上海・・」
今年に行った上海での、武術研修・交流・観光ツアー(楽しくて、楽しくて仕方がない・・)
GW期間を使った5月の上海研修ツアー
春節に、久しぶりに、ぶらりと気楽な一人旅
東京出身の私が、気付けば移り住んでいて武術交流活動がいいかたちで行えるようになっていたのが姉妹都市。
「横浜・・」
思えば想うほど、日本に来てしていた孫文、そして魯迅さんと内山鑑三、太宰治との交流。
日本との歴史的な縁もあり、好きな街です。