
今年は2014年、昨年9月に2020年東京五輪招致を決め、今年4月からの国家予算での動きがようやく機能し始め、関東地方全体には経済効果の明るさが出てきた感じを受けています。
この1週間の横浜は夏至時期並みの温度に涼しさが戻り、少し余裕をもって過ごすことができました。
こういう時は何気なく、ふと懐かしい記憶が甦ってくることがあります。
思い出せば今から10年前の2004年は2001年に横浜武術院を立ち上げて、2002年に上海と安徽省に交流や学習、国際大会出場などの本拠地を戻し、
2003年の秋に胡堅強先生を東京にお招きしてセミナーを開催し、伝統武術の気概を感じて欲しいと考え、当時の競技選手が中心だった武術班に学んでもらいました。
しかしながら当時は中国国内で高難度競技が始まり、2004年の上海国際武術博覧会で高難度競技のエキシビジョン大会が開かれました。
当時の武術班メンバーには高難度でも伝統でも、どちらでも応対できるようにと配慮し競技会へ出場しました。
長くキャリアを積んできた自分の眼からは、しかしながらその練習の雰囲気やテンションから感じたことは「気概に強さを感じられず、今後は長続きできないだろう」と予測をし、
自分自身が一念発起をし、もう一度選手を兼ねて2004年の博覧会のエキシビジョンに出場しました。
3年ぶりの競技会復帰では、初めてでの兼任しながらでもあって、自身でとてもその内容の出来に不満足の想いがありました。
そして2004年の大会では、新しくなったばかりの高難度競技ルールの難度採点部門の審判長に花妙林老師が抜擢され、もう1人の審判員が安徽省武術隊で仲の良かった国際套路第二刀術のモデルの陸松庭くんが担当し久しぶりの再会を喜びました。
その他湖北省武術隊女子のエース喩虹琴さんも審判になっていて、いろいろと楽しくて、自身の出来は今ひとつでしたが、とてもやる気が出て、その後には久しぶりに安徽省武術隊を訪ね、新しくなった武術館と練習を見学し、教学法についてアドバイスを受けました。
楊承冰老師と賈平さんと一緒に楽しく過ごし、そして帰国前にはまだそんなに大きな変化はなかった復旦大学へ花老師に会いに行き、そこでも楽しく過ごしました。
そして当時発表されたばかりの健身気功五禽戯と八段錦、馬王堆導引術44式、養生関係のテキストの多くを頂き、より一段と研究できるようアドバイスも受けました。
そしてここから更に上海の武術界との結びつきがより一層強くなったことが、日本では大きな存在ではありませんが、他に類のない本格派の存在としてでは大きな強みとなったのです。
中国伝統医学の資料は解読や翻訳がとても難しく、帰国後の研究と実践ではかなり大変でしたが、その資料からの分析と日本で既にある同じ黄帝内経などと照らし合わせて、更に大きな理解を得ることができました。
そしてその実践を重ねながら毎年に上海でアドバイスを受けながらオリジナルの新日本版養生訓を総編できました。
その効果もあって太極拳班はとても盛り上がるようになりました。しかしその反面、競技会オンリーだけでやってきたメンバーたちは伝統武術の練功の素晴らしさにも気付かず成績が伸びないと辞めるようになり、武術班では衰退するようになりました。
やはり単独で行っていく難しさを学び、2006年から国際新競技ルールになる高難度競技ルールは廃止し、元々自身が大事にしてきた伝統武術重視に切り替えました。
そして活動方法も胡堅強老師の少林武術中心スタイルから学び、新しいチーム構成を図り、私も2年後の2006年上海大会に向けたトレーニングもしながらの指導に切り替えました。
そしてまた新しく甦った新生武術班となって、あらゆる時勢やレベルに応じながらも各自が目指す共同体とした幅広い世代の皆さんのチーム構成で今現在に至っています。
しかしながらフィットネスの仕事では途中、ベンチャー企業との仕事で躓き、2008年のリーマン・ショック以降のフィットネス業界低迷の荒波にも鍛えられ、
思えばこの10年間は本当に学びの連続でした。
この間には、いいこともあって、嫌なこともあって、トータルで見ると、ハード面である企業という組織体との連携では、皆さんもご存知のように不況になれば途中は大きなマイナス面を感じる時期もありましたが、それらも乗り越えて、
その中でも大切にしてきた人、地域との連携や、自身が身につけた技能などのソフト面としてはとても大いに充実させられた実感があります。
「人間、お金を払ってでも苦労をしろ」というのは本当で、欧米式ビジネスや行政役人連中の考え方で苦労から逃れて人の所為にして、自身だけはいつも安全地帯でやるような人達は、共通していて、
「寄らば大樹の陰」にいるだけで、陰のような存在なので、能力も疑わしく、やはり信頼もできないし、知性も能力も身に着けられることは決してないという事実を実感し再認識しました。
今後の展開やスポーツ界、フィットネス業界、養生での仕事は明るさがかなり戻ってきたので、一つの知的財産である、自分の教養や技能を活かし、
これからは日本版段位制もより本格的に進めて武術院の活動とフィットネス、そして本場中国との交流を融合させて明るい発展を頑張りたいと思います。