中国で車窓から

中国大陸との往来を29年間を1985年から、ずっと繰り返してきて今現在になって想うことはたくさんあります。

当時の日本はアメリカン・ブームが主流で中国大陸に興味を持つ人はほとんどいませんでした。

しかしながら今でも覚えていることは、一番最初に飛行機を降りた瞬間から「すべてが違う」ということを直感で把握しました。

つまりは中国武術は、こうした広大な中国大陸的発想から生まれてきたものだ、ということを本能的に10代の時から理解できたことでした。

現在に人口が1億2700万人から1億2600万人代に推移してきた現代日本での感覚にありながら10倍以上の人口で国土は日本の26倍あって、55の民族を抱える「13億5000万人以上いる中国という国」の全体を考える、なんてことは、

冷静に考えて、普通の日本人感覚には全く不可能で、毎日流される政財界からの影響による報道のネガティブ・キャンペーン情報を見ていると、まともにそれを事実だと受け取ってしまうと、

当然に真面目な日本人達はきちんと「妄想性精神病」の予備軍に誰しもなってしまうだろう、と実感します。

そうなると、何かことあるごとに、あまり関係がないにも関わらず、現代日本人たちはヒステリックになって「中国が~」と皆さんが同じような感情を持ってしまうのです。

(※報道というのは、各国政府からの戦略的アクションの一環である、という事実を知るべきで、日本国内では1990年代から善意は少なくなっている印象を持ちます)

気をつけなければならないことですが、私達は日々忙しく時間に余裕もなく、テレビ雑誌や毎日眼にする電車内の広告を眺めているうちに、それは「事実か、事実なのかも知れない」と思うようになり、

それが親切心の逆効果か、心配性になり、精神的に不安になってしまう方向へと誘導されてしまうことです。

それは「富士山爆発か」とか書かれれば「富士山が~」となり、「大地震が来る」とかなれば「地震が~」となり、「放射能が~」とか、

少し前には「気候温暖化が~」

「生活習慣病は大丈夫か」となれば「自分は、がんは大丈夫か~」となってしまいます。

ちょっと前は「耐震偽装が~」とか、

最近でも「捏造が~」とか「STAP細胞が~」とかやっています。

冷静に見ると実際に影響が出るものとか、あまり関係あるものはなく、イメージ映像や写真などのコラージュ先行で、

数多くある中から、記事を選んで書かされる編集部や記者も精神的に「毎日が大変だな」と思います。

こうして現代社会の世を見ていると、常識的とかいう言葉の意味や文言を考えさせられます。

話しは戻りますが、中国との往来で危ないと思ったことや、食事や飲み物の不安なんて今までに一度も感じたことはありません。1980年代に比べたら今は天国に近づいたようにさえ感じます。

昔の中国での屋台でのドラム缶でのラーメン屋とか肉屋とかには、その技の凄さに感動しました。

むしろ素朴な中国に鍛えられたおかげで日本はインフラ設備面のよさに快適に思うようになりました。

そしてだんだんと時間が経つうちに「中国はいずれは間違いなく資本主義に転換するだろう」こうした感覚からずっと今日まで中国を見てきて考えることはたくさんあります。

私は中国との関係をビジネス・パートナーという考え方をしませんでした。

何故なら元々中国は共産主義体制があって個人的に密接な人間関係というコネクション重視は変わらずで、現代的西洋資本主義経済の考え方は合わない、と感じていたからです。

ですから、ずっと長く先生方や友人たちと今でも続く、素朴な学びと交流を大事にしてきて本当に良かったと実感しています。

きっと資本主義的な儲けだけを考えて、中国と付き合っていくには難しいと思うことがあり、そのことでビジネス的にうまくいかない理由がネガティブ・キャンペーンでの「うさ晴らし」になっているのだろうな、と私個人的には見えています。

私は丸々何年とかの長期留学ではなく、何度も短期留学を繰り返していたのが最近よかったのだと、思うことがあります。

長期留学は経済的理由でできなかったことがかえって、日本と中国とを往来し、その中から考えてヒントを得て日本でやってきたことが結果的には仕事としても実現でき、

これからの展望を考えるとやはり中国との関係は重視していますし、一層これからは相互にいい方向へと向かうだろうと実感しています。

やはり大事なことは、実際に自分の眼で見て、耳で聴いて、鼻も皮膚感覚も味覚も実感して、ありのままの情報を重要視し、

私は、事実にしか興味はありません。

報道関係者たちがどう表現しているとあっても、自分の保持する情報とはしない、という感覚がよかったと思います。