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先日、「中国武術について」の講義の依頼がありました。

講義は今までに企業でのフィットネス・インストラクターの養成や健康運動指導士会での健身気功関連か太極拳が多かったのですが、

今回は「中国武術について」というテーマで行いました。

普段から時折、中国武術理論概論を見直したり、古典の思想哲学書を見るようにして、自身での修養の時間を設けてるようにしています。

講義を依頼される場合はテーマから、それに沿って講義の内容を工夫して行うようにしています。

7月にも久しぶりの出張での講演の依頼が来ましたので、6月29日(日)のこともあって、資料作りを行っています。

改めて、中国武術を行う者としての「武術人士としての教養」はとても重要だと実感します。

今までにいろいろと多くの武術人士を見てきましたが、案外に教養の部分に関心を持たない人が多い現実を思うと複雑な心境になることがあります。

私がとても大事にしているものでは「道教的心性」「仏教的解釈性」そして「儒教的規範性」の3つです。

中でも最近感じるのは「儒教的規範性」の重要さを学び直すことではないか、と思うようになりました。

規範とは「仁義礼智信」の五つのもので、

「仁はおもいやり」

「義は人のみち」

「礼は仁のおもいを実際の行動で示す」

「智は学び、問い続けて正しさを理解する」

「信は人と言葉を違わぬようにすること」


そして武術の包拳礼では、拳は努力、勇気、武力を表し、それを包む掌は忍耐、守衛、智力を表し、

拳の上に掌を置くことで、心の中の武術精神を自身で再認識するもの、です。


今の現代日本を思うと、

「仁はおもいやり」はあるのだろうか、

「義は人のみち」を歩んでいるのだろうか、

「礼は仁のおもいを実際の行動で示す」の意味を理解しようとしているだろうか、

「智は学び、問い続けて正しさを理解する」こうしたことを避けようとしていないだろうか、

「信は人と言葉を違わぬようにすること」仕事、生活で自身を偽っていないだろうか、

と考えることが多いです。

武術界には「授武:武の技を授かる」そして「練武:武功を練る」「用武:武芸を用いる」

「比武:武功を比べ試す」があります。

そこで思うには、

「授武:武の技を授かった嬉しさ」

「練武:武功を練り続ける素直な努力」

「用武:武芸を用いるには、義を守るという意識」

「比武:武功を比べ試すことで、授武、練武、用武の効果を知る」

という感覚でいつも行っています。


そこで、私はいつも自身で授かった技の素晴らしさや、中国の恩師を思ったり、先生方の面子を大事にしながら、一緒に精進できることの喜びを感じることを実感しています。

振り返れば、そのことゆえに今現在の私があったことを理解します。

金銭を持っていれば何でもできる、金銭を払えば何でも手に入る、そんな考え方が日本だけでなく世界中に、そう思っているような人が多くいますが、武術界では有り得ないものです。

精進、修養は生涯での学びと自身の存在を、いいかたちで保持ができることだと実感しています。