
今日は、自分の原点回帰の一日にしてみたいと思い、久しぶりに生まれ故郷をも歩いてみたくなったので、府中の実家とかつて21年住んだ狛江の町の散策へと出掛けました。
先ず、府中に行き、自分の幼少の頃のアルバムを見てきました。
実は、中国武術の世界に入る前、功夫を積む前の先天的な顔や姿の自分を見たかったのです。
母は一番最初に出してきた写真は、自身で見て苦笑しました。
明らかに小学校に上がる前の頃の写真で、自転車に乗っていたものでしたが、まだその自転車はチェーンで動くものでしたが、後ろに回すとバックするかたちの自転車で、
その自転車の椅子:サドルに立ったまま片足を乗せ、もう片方はハンドルの真ん中に足をかけて、意味不明で何か偉そうなポーズをしている幼少の自分の姿を見ました。
直感で、ひと言感じた言葉は「この、クソガキ!」と思いました。
当時、若かりし父はハンサムで、母はとても美人でした。
何か、とても不思議な感覚になりました。
そうか、こうして自分はちょうど45年前に狛江の町で生まれ育ち、少年時代から人の言うことを聞かず、無茶苦茶なことをやってきたことを、自身の両親には何か申し訳ない不憫な気持ちがありました。
そこで、何とかできる親孝行としてを想い、自身の日々指導でお伝えする中国伝統養生理論と最新現代日本医科学理論を合わせた、独自の健康術や方法のことを持っていったレポート用紙に記述して、母に実践してくれるようにアドバイスして置いてきました。
これらが、せっかちで今からちょうど9年前の日に餅を喉に詰らせてあっという間に他界してしまった、亡き父にも間に合えばよかったのですが、
母にはまだまだこれからも元気であって欲しいと願っています。
そして、それから狛江の町を目指し、調布に移動しました。
いつの間にか、地下に駅があって、時の流れを実感しました。
調布では高校時代によくたむろした駅前の公園、父が経営していたお店の場所、思い出の地を歩いてから、今度はバスに乗りました。
途中景色で見ていた、懐かしい変わらない畑などのところや、よく父が家族全員でめでたい時には連れていってくれた「スエヒロ5」となっていたところがまだ「末広」という名で残っていたレストラン。
その近くが自分の通った、今はもうない剣道の至誠館道場跡地。
自分が生まれた病院、そして1985年の高校2年生で初の上海武術修行から戻り、国内での大阪で行われる第2回目の武術の大会に向けたハードトレーニングと学業とアルバイトの3つの両立で疲労とストレスから腹膜炎を起こして一度は死に掛けた慈恵第三病院で降りて、建物も眺めながら感慨深い想いに駆られました。
そして狛江ショッピングセンター、よくこっそり通っては入るのをバレて大目玉をくらったゲームセンターの2箇所。
母が経営していた美容院の跡地には、老人のケアセンターになっていました。
多摩川住宅、狛江第4小学校、立ち退きに合いましたが、自分が21年間住んでいた家の跡地。
その裏側のお地蔵さん。


そこからは、中学時代の通学路を歩きました。
途中、幼少からいつも来ていた思い出の伊豆美神社、その向こうの兜塚古墳。

それから、まだスズヤという質屋はまだ残っていて、亀塚古墳。
そして狛江第三中学校、
3年間の通学生活は高校と同じ3年だったのに、何故か小学校での6年間、留年した大学の6年間よりも長く感じていた3年間・・
以外に思い出したのは、その付近のアパートで「美竹荘:ミタケソウ」という建物の看板があって、
よく悪友たちとそれを指差しては、「ハイ、皆さんで一緒に~」と声かけて、
「ビチクソウ!!」とか言っていました(本当に、クソガキの自分)
今は「ベルハイム美竹」というおしゃれな建物になっていました。
そして、それから泉龍寺。
狛江駅。
懐かしい思い出の数々が、たくさん思い出されて目の前に出てきました。
確かに時間は流れたけれど、
そこに少年だった「自分」がいた。
あの時の「青春」があった。
そこに、ただいつもひたすらでがむしゃらで、後先考えず無茶苦茶にやる「自分」がいた。
青春の輝きと哀しみとが両立していた時間だった・・
両親には心配をかけ続けた人間であった。
思えば、許されることがたくさんあったのに、「許さない」と思ったのに、
あるいは、許されないだろう、と思ってしまったことなのに、
許されるどころか、
今はもう誰もが、そんなことは忘れられてしまって、気にも留められず、
人も多くがいなくなっていて、
自分の中だけにわだかまりのあった「事」
そんなこともあることを気付きました。
時が流れ、
今ここに今の自分が居る。
これからは春が来る、それだけが事実。
こんな人間だけれども、まだいつだって「青春」は続いている。