今日は私の人生にとっての大いなる記念日でした。

それは私の家系、成澤家に多大な影響を受けた武将、畠山重忠への慰霊に訪問しました。

私は7年前に父を亡くしました。

父は埼玉県深谷市が本籍でしたが、お家騒動に巻き込まれ、祖父母と伯母の3人で東京に出てきて父が生まれました。

母は岐阜県が本籍地で育ち、愛知県一宮市へ出て、そして東京へ出てきました。

そして父と母は東京で出会い、私達家族は狛江という小さな町で生活をしていました。

私は姉兄があり3番目、下に妹がいます。

小学生~中学生の時分で夏休みにはいつも8月の丸々一ヶ月間は母の実家の愛知県一宮市で生活をしました。

愛知県の人は明るくて言葉のノリがよく楽しかったように子供の時は思いました。

その反面、父方の実家ではいつも静かで、言葉も少なく、短い時間でお暇をする習慣で何かしら暗いイメージを持っていました。

性格的にも母はやはり活発明朗で、父は言葉も少なであまり話さず、たまに重要な時があると厳しい言葉を投げつけてくる、そんな感じでした。

しかし時間が経ち、今いくつも多くを思い起こせば、父親の厳しさという「愛」を今実感しています。

父は郷土深谷の生んだ偉人の畠山重忠と渋沢栄一と自身の血筋に誇りを持っていました。

父も自身に、常にその偉人たちの思いを胸に戦後日本社会の中で頑張っていたと思います。

今日はその畠山重忠の終焉の地に慰霊の思いで訪問をしてきました。

智仁勇に優れた畠山重忠は800年前に鎌倉幕府や武家政権樹立に大いに貢献した武将で、その武功への妬みから謀を受けて無念で非業の最期を、横浜の旭区鶴ヶ峰で遂げました。

私が気付いたのは、真面目に優しく、武芸に秀でていた者が権力者の謀略で殺害され一家滅亡に追い込まれたことで、

後に正義感ある伝統日本武士たちは気付き、謀略を企てた、畠山重忠の側室「菊の前」と北条政子の父である北条時政は失脚に追い込まれ出家することになり、後に北条家は常に不運だったことにも関連しています。

父方の家系の暗いイメージは実はここに関係があったことを理解しました。

父の3回忌の時に私は、母に「成澤家代々の背負ってきた暗い流れは自分の代で「けり」をつける」と約束をしました。

今年の私達の交流会に母を呼びました、昨年は骨折をしてしまい、やはり普通一般日本人の母ですから、心配になっているようでした。

私は一昨年2011年が42歳、畠山重忠が亡くなった年齢でした。

思えば厄年、大震災もそういうものだった気がします。

私は中国大陸で学んだ武術、太極拳、気功、易経、道教、仏教、儒教など多くの中国伝統文化を修めたことが逆に42歳から大いに発揮し始めました。

先日行った今年の交流会は、私達においての「流儀」をお披露目させて頂いた会でもあり、その成功をもって報告をと思い、今日は初めて畠山重忠公の終焉の地へとお参りさせて頂きました。

今日は崇敬する畠山重忠公の前に、もうあなたのような偉大な武将を危められるようには私の近くでは一切させませんし、世の中でもそれをさせないように頑張ります、

と誓いを込めて、そして私の先代のことも含めて「慰霊」の祈りを捧げました。

おそらく畠山重忠公も詣でたであろう、白根神社、白根不動尊にも参詣し、私はこの自身の人生で清清しい思いを胸に出来ました。

$横浜武術院・日本華侘五禽戯倶楽部のblog-畠山重忠2


$横浜武術院・日本華侘五禽戯倶楽部のblog-畠山重忠1

 鎌倉武士の典型とされる畠山重忠は、長寛2年(1164)に武蔵の国男衾(おぶすま)郡畠山(現埼玉県深谷市)に生まれた。畠山氏は桓武平氏良文流秩父氏の一族。
 元久2年(1205)鎌倉に異変ありという報で息子重保を先に行かせたがだまし討ちに遭い、自らも菅谷(埼玉県)から鎌倉に向かう途中、二俣川で北条氏数万と闘い、わずか134騎で4時間に及ぶ激戦の末42歳で非業の最期を遂げた。

(元久元年(1204年)11月、重忠の息子の重保が北条時政の後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅と酒席で争った。この場は収まったが、牧の方はこれを恨みに思い、時政に重忠を討つよう求めた。翌・元久2年(1205年)6月、時政は息子の義時・時房と諮り、『吾妻鏡』によると二人は「忠実で正直な重忠が謀反を起こす訳がない」とこれに反対するが、牧の方から問い詰められ、ついに同意したという)


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$横浜武術院・日本華侘五禽戯倶楽部のblog-首洗い井戸

「首洗い井戸の跡」 

現在は緑道として整備されていますが、以前は。帷子川はこの地を流れ川幅が広く、武士がここを渡る時、鎧を頭にかざし川を越えたので「鎧の渡し」と呼ばれていました。近くに鎧橋(埋め立てられて川は流れていない)として、橋名に残されている。川原には井戸があり切られた畠山重忠の首を洗ったという「首洗い井戸」があり川原に直径1メートルほどの穴があり水が涌いていたが、埋め立てられている。


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「首塚」

重忠の首は愛甲三郎によって切られ、帷子川清流の川原井戸で洗い清められこの場所に葬られたと伝えられている。


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「畠山重忠終焉の地 さかさ矢竹」

重忠が「わが心正かれば、この矢に枝葉を生じ繁茂せよ」と二本の矢を地面に突き刺したのが根が付き毎年二本づつ増え茂り続けたという。
 重忠公碑は、重忠没後七五〇年を記念して、昭和30年(1955年)に建てられた。


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「矢畑 腰巻」

北条方の放った矢が一面に突き刺さり、矢の畑のようになったということから「矢畑」と呼ばれています。また、このあたりで重忠が取り囲まれたというので腰巻と言うそうですが、矢が腰巻のようにぐるりと取り巻いたという説もあるそうです。

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$横浜武術院・日本華侘五禽戯倶楽部のblog-畠山重忠墓碑

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以前は今宿南町にあり福泉寺の末寺。明治39年に火災により焼失し、昭和3年現在地に再建。畠山重忠をはじめ一族郎党134騎を埋めたと伝えられる6つの塚がある。毎年、命日の6月22日には慰霊祭が催される。

$横浜武術院・日本華侘五禽戯倶楽部のblog-駕籠塚1

$横浜武術院・日本華侘五禽戯倶楽部のblog-駕籠塚2

重忠の内室「菊の前」は、合戦の連絡を受け、急ぎ駆けつけたが重忠戦死の報せに自害、駕籠ごと埋葬されたと伝えられている。以前は浄水場の中に竹で囲まれた塚があったが、昭和30年ここに移された。

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