科学的に客観視してみて武と呼ばれる文字のつく運動形態というのは「練」と「打」において行われているものです。
「練」とは「練る」「練習:習い、それを練る」
「打」とは「三大手型である、拳や掌、勾手、あるいは器械で打つ」
西洋スポーツでのボクシング、フェンシングでも、それは同様で日本武道の剣道、空手、合気道、少林寺拳法、日本拳法でもすべてこれは全く同じです。
中国武術は歴史が長く、今知られている有名な拳種、拳術は大体が14~19世紀の明清王朝の頃にはスタイルが完成していました。
私が大きな関心を持った理由としては、シンプルで判り易いところから始まり、それから繊細で精度の高い技能へ一個人でも修練し高みへと持っていける練習形態:功法に惹かれたことです。
私の日本武道の経験として少年時代の剣道と高校時代に柔道を習いました。
柔道は既に武術を専門にしてやっていた時期に学校の授業で行いました。
そして10代~20代の時の練習場は剣道場や柔道場で他の武道の皆さんと同じ場所で行っていたことがあります。
そしてその後総合格闘技というジャンルが出来て、様々なプロセスを見てきました。
その中で私には、何が流行ろうと、どんなスタイルになろうと、やはり伝統的中国武術の練習方法やプロセス、教学法が一番向いていると思いました。
それは基本的に相手が打ってくる、それを受ける、かわす、根本はこれだけのことですが、如何に精度を高く、正確で的確に技を繰り出し、そして正確で的確にそれを受ける。
その技法がとても多く、拳法においてでも真っ直ぐに打ち出してくる拳:衝拳、上から掌:手刀で振り下ろす劈掌、あるいは裏拳で打ってくる反劈拳、などその他多数。
その他にも蹴り技、関節技、ぶつかってくる:タックル、投げ技があり、これを四撃といいます。
そして剣刀棍槍、単器械、双器械、軟器械があります。
つまりは、それだけ正確で的確が武術技芸の「練」と「打」をこなす、ということは、それだけできるだけの、より深い繊細な手足、全体身体ごとの操作能力を高めることであり、
眼では動体視力で様々な角度から繰り出される拳脚器械を瞬間に認識し、それを察知し応対することです。
「打」を発することで「練」を意識するようになり、それは大きな動機付け:モチベーションを高めることになり、行えば行うほど身体の機能性が高くなることを意味します。
この「練」と「打」の結合の良質な連続性が武芸のすべてでもあるのです。
そうすることで大脳の感覚は活性化し、内臓はよく動かされ、飲食した食材はよく体内に吸収され、体内の血液循環が活性化することで栄養分はよく行き届き、老廃物は体外へ排出されていきます。
睡眠の質はよくなり、身体の超回復は一層よくなり、そして多くの日常活動にもいいかたちで影響を受けることになります。
単に私はこの心身感覚を大事にしているだけです。
昨日も棍術の対打でお話をしましたが、正確な技のやりとりができる、というのは、それだけ質の高い真摯なコミュニケーションを図れている、ことを認識できる、と言いました。
ゆえに武術は「音声のない言語であり、身につけた者は異なる国、異なる民族同士の人であっても会話ができる」といいます。
我々の住む現代日本社会はどうか、
何も言わない、何も聞かない、正しいことを知ろうという努力もしない。
誰も何もわかってくれない、という人もある。
言っていることとやっていることがまったく違う人が多く、あるいは、やっていることで自身が間違っていることを認識しながらも保身のために自己を取り繕うために真逆に正当化して物事を言うようなことを普通にしている人たち。
身体のしくみや構造も知らず、規則正しい生活という言葉は知っていても、それはどういうことかの実践も知らず、最近は親子三代揃ってでも何が良くて何が悪いのかもわからなくなっている怖い事実。
こうして連鎖は連鎖を起こし、より多く広くへ広まっている現象。
誰も気付かない、誰も表現しない。
政府や行政は、それらを見逃し、改善する気も見えない。
企業は企業で、その不安もビジネスターゲットで売り上げ効果を狙って不安を煽る文言を入れた広告さえバンバンと打つ始末。
そして最期は「個人責任」という有様。
こんな時代に、いつしか誰しもどこかに不信感を思い、何かしらの不安をまとい、自身を誤魔化して生きていく、そんな風潮や傾向が、
そのように私個人的には感じて見えることがよくあります。
近い将来には「未病:自己の心身においての健全な体質の恒常性が崩れかけている状態」から「病気:自己の心身においての体質の恒常性が崩れてしまい、自身では立て直せない状態」が全世代的に多くの割合を占めていくだろうと感じています。
私が武術にひたすら打ち込むのは、その現代日本社会を個人で変えることはできない。
治してあげたい、と思っても本人にその意志も意思もない、「やる気」も自発的にも出ていない。
ならば、常に自身は良好であり続けることであって、彼らが何時何を思うかにも、あまり気を遣わず、
自発的意識の高くなった方々に尽力をしたいと考えています。
何気なく、感じたのは「気付いていないことが判っていない」ことが心配でも不安でもないことが普通になった現代日本社会が、とても「現代中国社会」に似て来てしまっていることです。
皮肉にも、日本のその中で中国武術で、ひたすら毎日を頑張る自分自身。
何か、時に様々な事象に「気付くことへ心配をすること」に、気にしないようになりたい、と思う自分がいます。
そして「日本が善くなりますように」と願うばかりです。
「練」とは「練る」「練習:習い、それを練る」
「打」とは「三大手型である、拳や掌、勾手、あるいは器械で打つ」
西洋スポーツでのボクシング、フェンシングでも、それは同様で日本武道の剣道、空手、合気道、少林寺拳法、日本拳法でもすべてこれは全く同じです。
中国武術は歴史が長く、今知られている有名な拳種、拳術は大体が14~19世紀の明清王朝の頃にはスタイルが完成していました。
私が大きな関心を持った理由としては、シンプルで判り易いところから始まり、それから繊細で精度の高い技能へ一個人でも修練し高みへと持っていける練習形態:功法に惹かれたことです。
私の日本武道の経験として少年時代の剣道と高校時代に柔道を習いました。
柔道は既に武術を専門にしてやっていた時期に学校の授業で行いました。
そして10代~20代の時の練習場は剣道場や柔道場で他の武道の皆さんと同じ場所で行っていたことがあります。
そしてその後総合格闘技というジャンルが出来て、様々なプロセスを見てきました。
その中で私には、何が流行ろうと、どんなスタイルになろうと、やはり伝統的中国武術の練習方法やプロセス、教学法が一番向いていると思いました。
それは基本的に相手が打ってくる、それを受ける、かわす、根本はこれだけのことですが、如何に精度を高く、正確で的確に技を繰り出し、そして正確で的確にそれを受ける。
その技法がとても多く、拳法においてでも真っ直ぐに打ち出してくる拳:衝拳、上から掌:手刀で振り下ろす劈掌、あるいは裏拳で打ってくる反劈拳、などその他多数。
その他にも蹴り技、関節技、ぶつかってくる:タックル、投げ技があり、これを四撃といいます。
そして剣刀棍槍、単器械、双器械、軟器械があります。
つまりは、それだけ正確で的確が武術技芸の「練」と「打」をこなす、ということは、それだけできるだけの、より深い繊細な手足、全体身体ごとの操作能力を高めることであり、
眼では動体視力で様々な角度から繰り出される拳脚器械を瞬間に認識し、それを察知し応対することです。
「打」を発することで「練」を意識するようになり、それは大きな動機付け:モチベーションを高めることになり、行えば行うほど身体の機能性が高くなることを意味します。
この「練」と「打」の結合の良質な連続性が武芸のすべてでもあるのです。
そうすることで大脳の感覚は活性化し、内臓はよく動かされ、飲食した食材はよく体内に吸収され、体内の血液循環が活性化することで栄養分はよく行き届き、老廃物は体外へ排出されていきます。
睡眠の質はよくなり、身体の超回復は一層よくなり、そして多くの日常活動にもいいかたちで影響を受けることになります。
単に私はこの心身感覚を大事にしているだけです。
昨日も棍術の対打でお話をしましたが、正確な技のやりとりができる、というのは、それだけ質の高い真摯なコミュニケーションを図れている、ことを認識できる、と言いました。
ゆえに武術は「音声のない言語であり、身につけた者は異なる国、異なる民族同士の人であっても会話ができる」といいます。
我々の住む現代日本社会はどうか、
何も言わない、何も聞かない、正しいことを知ろうという努力もしない。
誰も何もわかってくれない、という人もある。
言っていることとやっていることがまったく違う人が多く、あるいは、やっていることで自身が間違っていることを認識しながらも保身のために自己を取り繕うために真逆に正当化して物事を言うようなことを普通にしている人たち。
身体のしくみや構造も知らず、規則正しい生活という言葉は知っていても、それはどういうことかの実践も知らず、最近は親子三代揃ってでも何が良くて何が悪いのかもわからなくなっている怖い事実。
こうして連鎖は連鎖を起こし、より多く広くへ広まっている現象。
誰も気付かない、誰も表現しない。
政府や行政は、それらを見逃し、改善する気も見えない。
企業は企業で、その不安もビジネスターゲットで売り上げ効果を狙って不安を煽る文言を入れた広告さえバンバンと打つ始末。
そして最期は「個人責任」という有様。
こんな時代に、いつしか誰しもどこかに不信感を思い、何かしらの不安をまとい、自身を誤魔化して生きていく、そんな風潮や傾向が、
そのように私個人的には感じて見えることがよくあります。
近い将来には「未病:自己の心身においての健全な体質の恒常性が崩れかけている状態」から「病気:自己の心身においての体質の恒常性が崩れてしまい、自身では立て直せない状態」が全世代的に多くの割合を占めていくだろうと感じています。
私が武術にひたすら打ち込むのは、その現代日本社会を個人で変えることはできない。
治してあげたい、と思っても本人にその意志も意思もない、「やる気」も自発的にも出ていない。
ならば、常に自身は良好であり続けることであって、彼らが何時何を思うかにも、あまり気を遣わず、
自発的意識の高くなった方々に尽力をしたいと考えています。
何気なく、感じたのは「気付いていないことが判っていない」ことが心配でも不安でもないことが普通になった現代日本社会が、とても「現代中国社会」に似て来てしまっていることです。
皮肉にも、日本のその中で中国武術で、ひたすら毎日を頑張る自分自身。
何か、時に様々な事象に「気付くことへ心配をすること」に、気にしないようになりたい、と思う自分がいます。
そして「日本が善くなりますように」と願うばかりです。