中国武術の歴史は長く、古代中国から国内において個別的闘争や国家同士での戦争の繰り返しの中で育まれ、軍事、兵法、そして養生、体育と時代におけるニーズによって必要性は当然それぞれに異なるようになりました。

今や世界中に広まり、多くの様々な方々の個人個人のニーズによっても価値観や考え方も出来てきいます。

必然的に世の中の治安が険悪になればなるほど、考え方としては兵法や格闘技術や攻防技術が重要になり、平和であれば養生や体育的側面が重視されるようになるものです。

今の日本はどうか、と考えてみれば治安は悪くなってきてもいるが、他の国々と比較するとまだまだ治安は良い方だと考えられます。

ですから何とはなしに満遍なく、人それぞれの価値観にあった武術項目が広く薄く、広まったというのも判る気がします。

古来の武術格言に謂うには「拳は、その人の心を表す」という言葉があります。

「心正しければ正しい拳となり、心邪なれば邪な拳になる」といいます。

これは古武道:日本伝統武術も同じで「人の剣は、その人の心を表す」というものでも一致します。

日本は伝統的に「日本刀」を携えて思考した、ということと中国では剣は権力の証でもあり、誰でも初めは「拳」から始めたという武術文化の歴史背景にもよります。

武術的思考というのは時代時代で価値観は異なります、時代においての価値観で「求められる武術性」というのは、その「本質」が変わるからです。

例えば政が乱れ、権力者たちの人心が乱れている時代には、そのような人たちの価値観、心理状態が武芸者たちの評価にも影響してきます。

ですから医学的な表現では「嫌気的」「好気的」といいますが、武術も正しく、その時代時代での「嫌気」「好気」があります。

そして正しく武術の技を修め、古代思想での「陰気」「陽気」においてでの陰陽学説を正しく理解していれば、武術は最終的に「健身」と「攻防技術」の両面になります。

それが、その人の持つ精神面、技術力での武術知性や教養のすべてを内包していることを自他的に理解することが可能になります。

私は経験的に「攻防」「闘技」「健身」「養生」そして「精神と肉体、闘技としての技芸を持った総合的心身両面での攻防術」というところに私の武芸は修まったと思います。


中国武術の特性には、攻防・文化・体育の重要性があります。

その特徴としては、

攻防動作 文化基礎 体育運動 この3つが含まれています。

この特徴を示す代表的な動作では、

起勢と包拳礼があります。

これは中国武術の道、武徳においての「礼儀」の根本でもあるのです。

2つとも精神的内在意識において、攻防意識が伴わなっていなければ「形」になることはありません。

起勢では「太極拳」ならば、上に両手を上げる動作は「提手」であり、両手の甲でいつでも、不用意な攻撃にも対応できる意識を持ち、下へ降ろす動作は「按」になります。

これは相手を信じていないのではなく、常に自分自身を守る意識をはたらかせておく為でもあるのです。

包拳礼では、右拳は「努力」「鍛錬」「武力」を意味し、

「左掌」はそれを覆う心持ちあるいは姿勢として、

「忍耐」「守衛」「智力」の意味を含み、相手にその意思を表しています。

これは武学的知識の無かった者が、有している「師」に就き「武芸・知行」を得られたことへの心から感謝の念を想う実践の連続性でもあることなのです。

そのことゆえ、「非礼・失礼」の無きように、と古人は戒めています。

現代日本社会にも、今や思うことは「嫌気的」「好気的」多種多様、国際的にも文化が流入しました。

人々は、その「心」に何を想い、何を行動するかで、それぞれにこれからの時代が定まっていくと思います。