今朝は休日でしたが、早めに目覚めたので、いつものように川原に出て気功での呼吸法をしていました。
空気が一段と冴えて快晴だったので、富士山の方角へ目を向けると、今日はまた一段と鮮やかな素晴らしい雄姿を見せて下さいました。
ふとその左側には、関東地方での総鎮守でもある、関東百名山の大山・阿夫利山も拝観できました。
何気なく偉大なる関東地方の山々を眺めていたら、ふと「大山・阿夫利山」から「しばらく来ていなかったね、お出で」と言っているような気がしました。
そう思ったら、いても立ってもいられなくなり、すぐ様に戻り仕度をして、出掛けました。
思えば、昨年は自分にとって、武術生活30周年を迎え、大きな「ひと段落」を終えられた年でした。
昨秋は、日本武道神であられる鹿島神宮と香取神宮、そして私の仏教の宗派での真言宗、成田山を参詣してきました。
そこで改めて近いうちに関東地方の総鎮守の大山へ行かなければ、と感じていました。
今日は、そのタイミングといい、体調といい、ベストな日でした。
電車に乗り継いで、麓から見上げた雄姿には、敬意を感じました。
大山は標高1,252mの山で江戸時代より山岳信仰をされてきた名山です。
私はその崇敬なる山へ参詣する時に、基本的に山頂まで途中で立ち止って、ひと息つくことはあっても頂上までは腰を下ろすことは一回もせず、一心不乱に昇り続けるひとつの行として思っています。
今日も参堂で合掌をしてからスタートしました。

男坂を上がり、阿夫利神社までは一気に上がりました。


そしてそこから登頂を目指します。
ここからは、なかなか上り坂はきつく、出来るだけ足を止めず、ひたすら昇ります。
途中には遠足で来ていた小学生たちや、学生さんと見られる若き皆さんも四苦八苦しています。
中には大声で「きつい~」「もう駄目だ~」「何でこんな山登るの~」とか叫ぶ子たちもいます。
年配の皆さん方も「足がつった、ヤバイ!」「ここまで来たけれど、どうしよう」
そんな言葉が聴かれます、この山はいつもこういった声を聞くなかでも、私はコツコツと足を止めずにひたすらに上がることをしています。
ここで気付くのは、こうした山登りは「人生そのもの」だということです。
私は、ただ目の前に「上がらなければならない道があるから昇るのだ」
「上がる場所が無くなるまでに、登る」
といつも思っています。
そして、自身の身体感覚で「武術」と「太極拳」と「気功」でいつも意識する心身感覚すべてをフル稼働させられるようになり、
いつも行っている身体活動の重要さを昇り降りをしながらも再認識させてくれるのです。
今日は、有難いことに今までで一番快晴な日に恵まれました。


日本一の霊峰、富士山が鮮やかに現れ、
頂上では「箱根」「江ノ島」「鎌倉」「三浦半島」「房総半島」「東京湾」「横浜」「新宿を含む東京都心」がすべて眼前の下に見られました。


こうして見ると、世の人々の世界は「河川での下流・河口」近くに都市が出来て、そこで幾多の人々たちの喜怒哀楽が生まれ、衆生の人生悲喜こもごもがある。
「こうした高みから見ると、何と小さなものなのだろうか」と実感しながらも、私自身もその中に「下山してから、またいつものように戻るのだ」
と感じさせられます。
いや、いつもこのように「山の神々から見えている高みからの大らかさを生かすことが大切なのだ」
そんなことを、また改めて学びました。


そして黙々と下山し、帰り道に振り返り、電車の車窓からも「大山・阿夫利山」を眺めていました。
地元に帰り、地元から見える雄姿にまた改めて感動し、心の中で合掌をしました。
ありがとうございました、感謝!
空気が一段と冴えて快晴だったので、富士山の方角へ目を向けると、今日はまた一段と鮮やかな素晴らしい雄姿を見せて下さいました。
ふとその左側には、関東地方での総鎮守でもある、関東百名山の大山・阿夫利山も拝観できました。
何気なく偉大なる関東地方の山々を眺めていたら、ふと「大山・阿夫利山」から「しばらく来ていなかったね、お出で」と言っているような気がしました。
そう思ったら、いても立ってもいられなくなり、すぐ様に戻り仕度をして、出掛けました。
思えば、昨年は自分にとって、武術生活30周年を迎え、大きな「ひと段落」を終えられた年でした。
昨秋は、日本武道神であられる鹿島神宮と香取神宮、そして私の仏教の宗派での真言宗、成田山を参詣してきました。
そこで改めて近いうちに関東地方の総鎮守の大山へ行かなければ、と感じていました。
今日は、そのタイミングといい、体調といい、ベストな日でした。
電車に乗り継いで、麓から見上げた雄姿には、敬意を感じました。
大山は標高1,252mの山で江戸時代より山岳信仰をされてきた名山です。
私はその崇敬なる山へ参詣する時に、基本的に山頂まで途中で立ち止って、ひと息つくことはあっても頂上までは腰を下ろすことは一回もせず、一心不乱に昇り続けるひとつの行として思っています。
今日も参堂で合掌をしてからスタートしました。

男坂を上がり、阿夫利神社までは一気に上がりました。


そしてそこから登頂を目指します。
ここからは、なかなか上り坂はきつく、出来るだけ足を止めず、ひたすら昇ります。
途中には遠足で来ていた小学生たちや、学生さんと見られる若き皆さんも四苦八苦しています。
中には大声で「きつい~」「もう駄目だ~」「何でこんな山登るの~」とか叫ぶ子たちもいます。
年配の皆さん方も「足がつった、ヤバイ!」「ここまで来たけれど、どうしよう」
そんな言葉が聴かれます、この山はいつもこういった声を聞くなかでも、私はコツコツと足を止めずにひたすらに上がることをしています。
ここで気付くのは、こうした山登りは「人生そのもの」だということです。
私は、ただ目の前に「上がらなければならない道があるから昇るのだ」
「上がる場所が無くなるまでに、登る」
といつも思っています。
そして、自身の身体感覚で「武術」と「太極拳」と「気功」でいつも意識する心身感覚すべてをフル稼働させられるようになり、
いつも行っている身体活動の重要さを昇り降りをしながらも再認識させてくれるのです。
今日は、有難いことに今までで一番快晴な日に恵まれました。


日本一の霊峰、富士山が鮮やかに現れ、
頂上では「箱根」「江ノ島」「鎌倉」「三浦半島」「房総半島」「東京湾」「横浜」「新宿を含む東京都心」がすべて眼前の下に見られました。


こうして見ると、世の人々の世界は「河川での下流・河口」近くに都市が出来て、そこで幾多の人々たちの喜怒哀楽が生まれ、衆生の人生悲喜こもごもがある。
「こうした高みから見ると、何と小さなものなのだろうか」と実感しながらも、私自身もその中に「下山してから、またいつものように戻るのだ」
と感じさせられます。
いや、いつもこのように「山の神々から見えている高みからの大らかさを生かすことが大切なのだ」
そんなことを、また改めて学びました。


そして黙々と下山し、帰り道に振り返り、電車の車窓からも「大山・阿夫利山」を眺めていました。
地元に帰り、地元から見える雄姿にまた改めて感動し、心の中で合掌をしました。
ありがとうございました、感謝!