武芸の道を歩んでいると思うことは現代日本社会では多々起こります。
武術や武道の道を進めば、必ず考えるようになるのは自分自身の死生観についてです。
私の子供の頃は落ち着きがなく、いつも何かに好奇心を持ち、率先して何でもすぐに実行に移す性分でした。
そして性格的に負けん気が強いので、実は弱い性根であった時でも強気強気で押し通してきました。
それが時折悪い方に向かうことがたくさんありました。
それはおそらく生まれ持って「逃げることが嫌い」だったからです。
そこで今までに死に掛けたことが3回ありました。
母に聞くところによると一回めは生まれた時に逆子で出てきた時は何も声を出さずに出てきて、その担当医が驚いて生まれたばかりの私のお尻を叩いたら思い出したように勢いよく泣き出した、と聞きました。
そして医師は「まったく、お前は生まれた時から人に心配させやがって・・この親不孝者め」とつぶやいたそうです。
2回目の出来事は私は東京の狛江という町で生まれ育ちました。
多摩川が近くにあって桜の木がたくさんあって、4月の開花時にはとてもきれいな景色が今でも覚えています。
亡き父は武家の末裔の家系に誇りをとても大事にしていた人でした。
春の桜が咲き乱れる頃に「日本武士はパッと咲いてパッと散る、そんな潔さが大事なんだ」と言っていました。
それは私の生涯の信条だと思います。
しかし子供の頃はそれが負けん気となり、意地っ張りな少年時代でした。
文豪夏目漱石の小説「坊ちゃん」を読んだ時、まったく同じようなことをしていたことで自分について書いてあるのかとさえ思いました。
小学校の時はクラスに何人か意地悪な人間がいました、そこで何かと大した理由なくからかわれたりすることが不本意でした。
当時は熱心な剣道少年でもあったので、竹刀代わりに箒でも持てば誰とでもやっつけてやる、という感覚がありました。
ある時「チキンゲーム」という勝負事が何故か流行った時期がありました。
私の時代は自転車に乗って多摩川に向かって河川敷を走り降り、ブレーキをかけて先に止まった方が負け、というものでした。
何かとからまれやすい性質の自分は悪友に挑まれたのでやりました。
一回シミュレーションをやって、次が勝負だったのですが、私は躊躇しませんでした。
私の感覚ではブレーキのレバーは既に握らない、という感覚です。
勝負が始まり、だんだんと坂を降り始めればスピードはどんどんと上がってきます。
悪友は「おい、どうするんだ、おい」とか言ってきます。
私は「うるせえ!」というのみです。
「おい!お前、おい!」と言っても無視です。
あの感覚は今でも覚えています。
砂利がだんだん多くなって、でこぼこ道をガタガタ揺れながらでも川へ向かって走っていきます。
私の方がスピードが上がってきたので声は後ろからしか聞こえてきません。
「おい!、おい!、おい!」
自分の前に見えるのは川だけです。
「バッシャーン!!」と突っ込みました。
自転車ごと服も全部水びたしになり、泥がついてドロドロになりました。
それから立ち上がってから振り返ると辺りはシーンとしていて、悪友とその仲間たちは後ろで呆然として立っていました。
自分が川から上がってきて彼らに向かって「おい!!!」と大きな声で言いました。
彼は「ハイ」と言いました。
「俺の勝ちだな」
「・・・」
そしてそのまま彼らを後にして、自転車に乗って水びたしのまま、近くの銭湯へ行きました。
銭湯についたら番台(懐かしい!)で「何あんた、そんなどろどろで!」と言われました。
自分は「だからきれいになるために来たんだよ」と言い返しました。
番台のおばさんは「・・・」という感じでした。
その時のお風呂の心地よさと、また汚れて濡れてくさい臭いのする服を着た時、なんともない不本意さを今でも思い出します。
確かその年の梅雨時期のことスイミングスクールの帰り道に家のもうすぐまでとという自転車での帰り道にT字路があって、左側から勢いよく車が出てきて、自分は慌てて右にハンドルをきったら崖があって、そのまま真っ逆さまに自転車ごと落っこちました。
そのまま2日間ほど記憶喪失になっていて、目が覚めたら誰もいない自分の部屋で寝ていました。
初夏の割には冷たい雨が降っていたことを覚えています。
母は近くの私が生まれた病院の慈恵第三病院から医師に来てもらって「もうちょっと、打ち所が悪かったら脳に大きな障害が起こるところだった」と言われたそうです。
そして覚えているのは自分が大好きだった当時のテレビ番組の「大鉄人17」の超合金の人形を母が買ってきてくれて頭はズキズキと痛み包帯を巻いた状態で学校を休んでいる中でもその超合金の人形と一緒に主題歌を歌って楽しく遊んでいたことを思い出します。
(今調べてみたら、その番組は1977年なので小学校2年生の頃のことだと解りました)
とにかく自分の無茶苦茶は自身で怖くはない、という性格はこの頃には出来ていたのだと思います。
そして3回めの時は、高校生になり1985年のことです。
中国武術を始めてから、3年が経ち、初めて上海へ訪問し上海体育学院での学習と民間伝統武術家の師爺「徐文忠老師」に武術を学びました。
この経験の素晴らしさから28年経った今でも中国との往来がライフワークになりました。
(思うと、あれから28年間経ち、当時16歳だった自分は今44歳になりました、数えてみると中国を知らなかった16年、中国の変化を毎年感じ通い続けた28年間のバランスの不思議さを思います)
私の実家はそんなに裕福でもなく、6人家族でお金にはいつも困っている頃でした。私はどうしても中国に行き武術を学びたかったので父に「借金」をする、ということでお金を借り、毎月新聞配達のアルバイトで給料から返済する、ということにして行きました。
行ったのは本当に良かったと今でも思っています。
今でもその人脈は大いに活きていて、チャンスを逃さなかったことの直感を大事にしています。
しかしながら、当時1985年はその前年の1984年の6月に初めて日本国内で雑誌「武術 うーしゅう」を出版する会社の福昌堂と大阪太極拳協会の合同事業で「第一回全日本太極拳・中国武術表演大会」が難波の南海球場近くの大阪府立体育館で開催されました。
私はその大会に東京から出て挑み、惨敗をしました。
その再チャレンジに自身を厳しく追い込むために当時一番古く中国の先生を招請していた全日本太極拳協会へ移籍し、訓練を頑張りました。
上海での訓練費用の借金返済のための新聞配達と弁当やさんでの2つアルバイト、高校生としての学業、武術を自身から望み厳格な訓練に挑みました。
覚えているのは上海から戻り、協会では河南省武術代表団を招き、今名古屋で活動している丁傑さんと映画「少林寺2」で猿拳をやっていた李玉忠くん、橋標先生との強化合宿がありました。
そこで疲労と睡眠不足から盲腸炎を起こしていて、更にそのまま我慢してライフワークを続けていて腹膜炎を起こし、緊急手術、一ヶ月の入院生活をするはめになりました。
痛みを我慢して生活していたのですが、ある日にどうしても痛みが耐えられくなり、母に薦められて病院に行ったら午前中の診断で午後には手術が必要だといわれました。
そのまま血液検査をして、何かいろいろと手続きをしてから手術台へ運ばれ、手術を受けました。
それからまた2日ほど意識がなく、憶えているのはとても気持ちよい、ふわふわと暖かい風の中でたくさんの黄色い菜の花に囲まれた中で、武術の練習をしていました。
そこで、そんなに大きくはない川に赤い橋が掛かっていて、川向こうから「お~い」「お~い」と声が聞こえました。
そこに振り返った時に目が覚めて、身体にビニールパイプが繋がっていて、下腹に3本、両鼻に繋がれていて、口には酸素吸入器があてられている自分が解りました。
目が開いて、でも身体全身は動かなく、目の前に移ったのは腕組をしてうつらうつらと揺れながら仮眠を取っている父が見えました。
そこで瞬時に自身の大自然界で犯した「罪」を理解しました。
あの光景と父への感謝と母への感謝は一生忘れません・・
それから「絶対安静」が3週間ほどありました。
学校の同級生たちがお見舞いに来てくれました。
恥ずかしかったけれど、嬉しかったです。
しかし情けない自身を感じてしまいました。
3週間、寝たきりの自分の足を見た時に3分の1ほど減り細くなった大腿部に愕然としました。
病室で一人、悔しくて、立ち上がってみました。
力が入らなくて、情けない気持ちを今でも忘れません。
そこで意地になって立ち上がり、夜の窓ガラスに映る立ち上がった自分に「どうだい!」と言いました。
その後ふらっとベットに倒れました。
「まぁ、いいさ」と思い眠りに着きました。
次の日の朝の定期検診で医師と看護婦さん2人に診察を受けました。
「あれ、傷口が開いている・・」医師は私に言いました・
「どうしたの!?」
私は「立ち上がりました」と答えました。
「駄目だよ、そんなことをしちゃ!」
私「済みません」
医師「駄目だよ、君、身体を大事にしなくちゃ、言うことを聞かなきゃだめだよ!」
それからは言うことを聞き、それから1週間で退院許可が出て、帰宅しました。
かつては、身勝手にぶつぶつとくだらない文句や要求を言っていた「我が家」の心地良い素晴らしさは忘れられません。
こうして3回ほど、親不孝者の自分に不甲斐なさと情けなさがあってから真剣な中での真剣な「養生」の研究と実践の追求へとつながり、
その自身から起こした親不孝意識からと、現代日本社会での健康不安や問題を解決して大きな心身の絶対的安心感を得たい、ということが私をこの道の深くへと導かれたのだと思います。
表題に「政治と宗教をタブーとしない」と記しました。
母はこんな無鉄砲な男を心配して、姉、兄、妹との四兄弟姉妹を想い幸せを願い、
たくさんの信仰や宗教に関心を持つようになり、願いと祈りを捧げて頑張ってくれました。
いろいろと思うことはあるけれど大きな感謝をしています。
私は以前、生業で武術で生計を立てられなくて、ある有名ホテルの従業員としてバーテンダーの仕事をしていたことがあります。
その時「酒場の仕事では政治と宗教はタブー:禁忌だから触れちゃ絶対駄目」といわれました。
私は今武芸者という仕事をしながら、おかしな世界情勢、おかしな現代日本社会の現象。
いろいろを今思い起こしては考えています。
昨年は「2012」
今年はまだ誰も予測できぬ「2013年」が始まりました。
今や世界中は繋がっていて「政治と宗教をタブーとしない」
というより、「問題点について」は追求を緩めない。
新たな民間、全世代間にもタブーなき本音で、未来や将来を語り合い協力し合える世界規模のありとあらゆる心優しい草の根活動が云う本当の意味での「新世界秩序:NWO」の実現を思います。
今までに勘違いをして思い上がった世界の富裕層:エリートらの再教育と、
誰もが全世代、国際規模で日本的「思いやり文化」で繋がれたら、
私の感想としては、とても幸せだと思っています。
武術や武道の道を進めば、必ず考えるようになるのは自分自身の死生観についてです。
私の子供の頃は落ち着きがなく、いつも何かに好奇心を持ち、率先して何でもすぐに実行に移す性分でした。
そして性格的に負けん気が強いので、実は弱い性根であった時でも強気強気で押し通してきました。
それが時折悪い方に向かうことがたくさんありました。
それはおそらく生まれ持って「逃げることが嫌い」だったからです。
そこで今までに死に掛けたことが3回ありました。
母に聞くところによると一回めは生まれた時に逆子で出てきた時は何も声を出さずに出てきて、その担当医が驚いて生まれたばかりの私のお尻を叩いたら思い出したように勢いよく泣き出した、と聞きました。
そして医師は「まったく、お前は生まれた時から人に心配させやがって・・この親不孝者め」とつぶやいたそうです。
2回目の出来事は私は東京の狛江という町で生まれ育ちました。
多摩川が近くにあって桜の木がたくさんあって、4月の開花時にはとてもきれいな景色が今でも覚えています。
亡き父は武家の末裔の家系に誇りをとても大事にしていた人でした。
春の桜が咲き乱れる頃に「日本武士はパッと咲いてパッと散る、そんな潔さが大事なんだ」と言っていました。
それは私の生涯の信条だと思います。
しかし子供の頃はそれが負けん気となり、意地っ張りな少年時代でした。
文豪夏目漱石の小説「坊ちゃん」を読んだ時、まったく同じようなことをしていたことで自分について書いてあるのかとさえ思いました。
小学校の時はクラスに何人か意地悪な人間がいました、そこで何かと大した理由なくからかわれたりすることが不本意でした。
当時は熱心な剣道少年でもあったので、竹刀代わりに箒でも持てば誰とでもやっつけてやる、という感覚がありました。
ある時「チキンゲーム」という勝負事が何故か流行った時期がありました。
私の時代は自転車に乗って多摩川に向かって河川敷を走り降り、ブレーキをかけて先に止まった方が負け、というものでした。
何かとからまれやすい性質の自分は悪友に挑まれたのでやりました。
一回シミュレーションをやって、次が勝負だったのですが、私は躊躇しませんでした。
私の感覚ではブレーキのレバーは既に握らない、という感覚です。
勝負が始まり、だんだんと坂を降り始めればスピードはどんどんと上がってきます。
悪友は「おい、どうするんだ、おい」とか言ってきます。
私は「うるせえ!」というのみです。
「おい!お前、おい!」と言っても無視です。
あの感覚は今でも覚えています。
砂利がだんだん多くなって、でこぼこ道をガタガタ揺れながらでも川へ向かって走っていきます。
私の方がスピードが上がってきたので声は後ろからしか聞こえてきません。
「おい!、おい!、おい!」
自分の前に見えるのは川だけです。
「バッシャーン!!」と突っ込みました。
自転車ごと服も全部水びたしになり、泥がついてドロドロになりました。
それから立ち上がってから振り返ると辺りはシーンとしていて、悪友とその仲間たちは後ろで呆然として立っていました。
自分が川から上がってきて彼らに向かって「おい!!!」と大きな声で言いました。
彼は「ハイ」と言いました。
「俺の勝ちだな」
「・・・」
そしてそのまま彼らを後にして、自転車に乗って水びたしのまま、近くの銭湯へ行きました。
銭湯についたら番台(懐かしい!)で「何あんた、そんなどろどろで!」と言われました。
自分は「だからきれいになるために来たんだよ」と言い返しました。
番台のおばさんは「・・・」という感じでした。
その時のお風呂の心地よさと、また汚れて濡れてくさい臭いのする服を着た時、なんともない不本意さを今でも思い出します。
確かその年の梅雨時期のことスイミングスクールの帰り道に家のもうすぐまでとという自転車での帰り道にT字路があって、左側から勢いよく車が出てきて、自分は慌てて右にハンドルをきったら崖があって、そのまま真っ逆さまに自転車ごと落っこちました。
そのまま2日間ほど記憶喪失になっていて、目が覚めたら誰もいない自分の部屋で寝ていました。
初夏の割には冷たい雨が降っていたことを覚えています。
母は近くの私が生まれた病院の慈恵第三病院から医師に来てもらって「もうちょっと、打ち所が悪かったら脳に大きな障害が起こるところだった」と言われたそうです。
そして覚えているのは自分が大好きだった当時のテレビ番組の「大鉄人17」の超合金の人形を母が買ってきてくれて頭はズキズキと痛み包帯を巻いた状態で学校を休んでいる中でもその超合金の人形と一緒に主題歌を歌って楽しく遊んでいたことを思い出します。
(今調べてみたら、その番組は1977年なので小学校2年生の頃のことだと解りました)
とにかく自分の無茶苦茶は自身で怖くはない、という性格はこの頃には出来ていたのだと思います。
そして3回めの時は、高校生になり1985年のことです。
中国武術を始めてから、3年が経ち、初めて上海へ訪問し上海体育学院での学習と民間伝統武術家の師爺「徐文忠老師」に武術を学びました。
この経験の素晴らしさから28年経った今でも中国との往来がライフワークになりました。
(思うと、あれから28年間経ち、当時16歳だった自分は今44歳になりました、数えてみると中国を知らなかった16年、中国の変化を毎年感じ通い続けた28年間のバランスの不思議さを思います)
私の実家はそんなに裕福でもなく、6人家族でお金にはいつも困っている頃でした。私はどうしても中国に行き武術を学びたかったので父に「借金」をする、ということでお金を借り、毎月新聞配達のアルバイトで給料から返済する、ということにして行きました。
行ったのは本当に良かったと今でも思っています。
今でもその人脈は大いに活きていて、チャンスを逃さなかったことの直感を大事にしています。
しかしながら、当時1985年はその前年の1984年の6月に初めて日本国内で雑誌「武術 うーしゅう」を出版する会社の福昌堂と大阪太極拳協会の合同事業で「第一回全日本太極拳・中国武術表演大会」が難波の南海球場近くの大阪府立体育館で開催されました。
私はその大会に東京から出て挑み、惨敗をしました。
その再チャレンジに自身を厳しく追い込むために当時一番古く中国の先生を招請していた全日本太極拳協会へ移籍し、訓練を頑張りました。
上海での訓練費用の借金返済のための新聞配達と弁当やさんでの2つアルバイト、高校生としての学業、武術を自身から望み厳格な訓練に挑みました。
覚えているのは上海から戻り、協会では河南省武術代表団を招き、今名古屋で活動している丁傑さんと映画「少林寺2」で猿拳をやっていた李玉忠くん、橋標先生との強化合宿がありました。
そこで疲労と睡眠不足から盲腸炎を起こしていて、更にそのまま我慢してライフワークを続けていて腹膜炎を起こし、緊急手術、一ヶ月の入院生活をするはめになりました。
痛みを我慢して生活していたのですが、ある日にどうしても痛みが耐えられくなり、母に薦められて病院に行ったら午前中の診断で午後には手術が必要だといわれました。
そのまま血液検査をして、何かいろいろと手続きをしてから手術台へ運ばれ、手術を受けました。
それからまた2日ほど意識がなく、憶えているのはとても気持ちよい、ふわふわと暖かい風の中でたくさんの黄色い菜の花に囲まれた中で、武術の練習をしていました。
そこで、そんなに大きくはない川に赤い橋が掛かっていて、川向こうから「お~い」「お~い」と声が聞こえました。
そこに振り返った時に目が覚めて、身体にビニールパイプが繋がっていて、下腹に3本、両鼻に繋がれていて、口には酸素吸入器があてられている自分が解りました。
目が開いて、でも身体全身は動かなく、目の前に移ったのは腕組をしてうつらうつらと揺れながら仮眠を取っている父が見えました。
そこで瞬時に自身の大自然界で犯した「罪」を理解しました。
あの光景と父への感謝と母への感謝は一生忘れません・・
それから「絶対安静」が3週間ほどありました。
学校の同級生たちがお見舞いに来てくれました。
恥ずかしかったけれど、嬉しかったです。
しかし情けない自身を感じてしまいました。
3週間、寝たきりの自分の足を見た時に3分の1ほど減り細くなった大腿部に愕然としました。
病室で一人、悔しくて、立ち上がってみました。
力が入らなくて、情けない気持ちを今でも忘れません。
そこで意地になって立ち上がり、夜の窓ガラスに映る立ち上がった自分に「どうだい!」と言いました。
その後ふらっとベットに倒れました。
「まぁ、いいさ」と思い眠りに着きました。
次の日の朝の定期検診で医師と看護婦さん2人に診察を受けました。
「あれ、傷口が開いている・・」医師は私に言いました・
「どうしたの!?」
私は「立ち上がりました」と答えました。
「駄目だよ、そんなことをしちゃ!」
私「済みません」
医師「駄目だよ、君、身体を大事にしなくちゃ、言うことを聞かなきゃだめだよ!」
それからは言うことを聞き、それから1週間で退院許可が出て、帰宅しました。
かつては、身勝手にぶつぶつとくだらない文句や要求を言っていた「我が家」の心地良い素晴らしさは忘れられません。
こうして3回ほど、親不孝者の自分に不甲斐なさと情けなさがあってから真剣な中での真剣な「養生」の研究と実践の追求へとつながり、
その自身から起こした親不孝意識からと、現代日本社会での健康不安や問題を解決して大きな心身の絶対的安心感を得たい、ということが私をこの道の深くへと導かれたのだと思います。
表題に「政治と宗教をタブーとしない」と記しました。
母はこんな無鉄砲な男を心配して、姉、兄、妹との四兄弟姉妹を想い幸せを願い、
たくさんの信仰や宗教に関心を持つようになり、願いと祈りを捧げて頑張ってくれました。
いろいろと思うことはあるけれど大きな感謝をしています。
私は以前、生業で武術で生計を立てられなくて、ある有名ホテルの従業員としてバーテンダーの仕事をしていたことがあります。
その時「酒場の仕事では政治と宗教はタブー:禁忌だから触れちゃ絶対駄目」といわれました。
私は今武芸者という仕事をしながら、おかしな世界情勢、おかしな現代日本社会の現象。
いろいろを今思い起こしては考えています。
昨年は「2012」
今年はまだ誰も予測できぬ「2013年」が始まりました。
今や世界中は繋がっていて「政治と宗教をタブーとしない」
というより、「問題点について」は追求を緩めない。
新たな民間、全世代間にもタブーなき本音で、未来や将来を語り合い協力し合える世界規模のありとあらゆる心優しい草の根活動が云う本当の意味での「新世界秩序:NWO」の実現を思います。
今までに勘違いをして思い上がった世界の富裕層:エリートらの再教育と、
誰もが全世代、国際規模で日本的「思いやり文化」で繋がれたら、
私の感想としては、とても幸せだと思っています。