先日、100歳で逝去された映画監督の新藤兼人さんが遺した言葉に「老いの本質」を、
「妄執、欲望、後悔でいら立つばかり。死に近づく恐怖や社会から疎んじられている悔しさが渦巻いている」と説いていました。
人は誰でも老いていき、私自身でも必ず老いていきます。
このことを読んでから少し考えることがありました。
一昨年の水曜日はある武道場で嗜みとしての居合いの稽古をしていました。自分以外には周りに空手を黙々と打ち込む年配男性がいて、
制定居合いの型を練習している老人男性がいました。
いろいろと思いはよぎります。
一般老年男性に見られる姿は上記のことをよく感じています。それはよくテレビなどに出てくる名の知られた人物でもまったく同様に思います。
経済的にでも豊かであって恵まれているような人の我執というのは特にとても醜く、ああいう人に関心を持たず影響を受けない人生であって本当に良かったと思います。
時折、私が学んだ老師の姿をよく思い出します。
もう亡くなられましたが徐文忠老師や何福生老師は共に中国武術名家であり
70歳を過ぎてでも武技が敏捷かつ身軽で頭脳明晰で聡明であった真の文武両道の姿を教わり今でも尊敬し覚えています。
私自身も晩年はそうでありたいと日々の精進を怠らずに努めているのはそのことがあります。
5年前と3年前に指導を賜った90歳になる伝統華侘五禽戯57代の薫文煥老師の健在と五禽戯の理を教わった時にも感動がありました。
剣道の先生は、よくいずれ定年だから楽になるとかよく言っていましたのでおそらく60代ぐらいより前だったと思いますが、中国の師に比べては遙かにしわもなく若かった印象があります。
そしていつも・・が痛い・・が痛い。年は嫌だといつも愚痴をこぼしていたこととその先生に私はあまり好かれていなかったことを覚えています。
かつて少年~青年時代に少しひねくれていたのは日本人の先生にはほとんど好かれずにいて中国人の師には好まれたことが理由になっていました。
今になればその答えは出たので長い間の決着が私の中では着きました。
私の分析では「妄執、欲望、後悔でいら立つばかり」は「執着心が強すぎるから、その行動には後悔が多く自分自身に苛立つ」と聞こえますし、
「死に近づく恐怖や社会から疎んじられている悔しさ」
は自身の真摯で効果ある心身の健康維持活動をしてこなかったこと、知らないことへの怖れ、時間が経てば経つほど人間の態度というのは判り易くなるもので、
その用立てられず、邪魔もの扱いを受ける悔しさ、そしてそれに対して自身一人では行動を起こせないもどかしさ」ということができるように思います。
武芸者なら当然戦いの中での「死」を認識・覚悟しながらも修練することが意識では普通ではあると思うし、
正しき養生学を学べば何をすべきで何をしてはいけない、ということで「生」とはどういうことかをも知り理解できるはずです。
私自身の思う老のことは老師の「老」であり、若年だった時よりも今の方がはるかにすべての面で充実していることを自分のライフワークの効果を再認識して未来に自分の老後にではもっと進歩して充実しているであろうと希望を持っています。
そこにはずっと携わってきた武芸の重要さを感じますし、学校教育や社会でも武道や武術を重視しなかったこと(あるいは無感覚でその方向性に従ったこと)に多くがそれを知らずにいることと起因していることがわかります。
因果応報の言葉の意味通り、最近思うに人は究極的には、人それぞれでしかないし、それぞれの自信は自身のしてきた修練の賜物:具体的な実践の積み重ねしかないのだと思います。(なければ、当然なし)
しかし私の毎日の普及活動で思うに60~80歳代の女性はとても健全な大和撫子が多く真面目で元気な方々が多いと思います(男性で残念ながらその逆で依存体質の方が多いようです)
毎日のニュースからも判る、崩壊しつつある西洋資本主義時代の現在の日本では将来にもっと危機意識を持たなければならない世代なのは我々の年代、40~50歳代だと思います。
これからの5~10年後は結構大事な時期だと感じています。
「妄執、欲望、後悔でいら立つばかり。死に近づく恐怖や社会から疎んじられている悔しさが渦巻いている」と説いていました。
人は誰でも老いていき、私自身でも必ず老いていきます。
このことを読んでから少し考えることがありました。
一昨年の水曜日はある武道場で嗜みとしての居合いの稽古をしていました。自分以外には周りに空手を黙々と打ち込む年配男性がいて、
制定居合いの型を練習している老人男性がいました。
いろいろと思いはよぎります。
一般老年男性に見られる姿は上記のことをよく感じています。それはよくテレビなどに出てくる名の知られた人物でもまったく同様に思います。
経済的にでも豊かであって恵まれているような人の我執というのは特にとても醜く、ああいう人に関心を持たず影響を受けない人生であって本当に良かったと思います。
時折、私が学んだ老師の姿をよく思い出します。
もう亡くなられましたが徐文忠老師や何福生老師は共に中国武術名家であり
70歳を過ぎてでも武技が敏捷かつ身軽で頭脳明晰で聡明であった真の文武両道の姿を教わり今でも尊敬し覚えています。
私自身も晩年はそうでありたいと日々の精進を怠らずに努めているのはそのことがあります。
5年前と3年前に指導を賜った90歳になる伝統華侘五禽戯57代の薫文煥老師の健在と五禽戯の理を教わった時にも感動がありました。
剣道の先生は、よくいずれ定年だから楽になるとかよく言っていましたのでおそらく60代ぐらいより前だったと思いますが、中国の師に比べては遙かにしわもなく若かった印象があります。
そしていつも・・が痛い・・が痛い。年は嫌だといつも愚痴をこぼしていたこととその先生に私はあまり好かれていなかったことを覚えています。
かつて少年~青年時代に少しひねくれていたのは日本人の先生にはほとんど好かれずにいて中国人の師には好まれたことが理由になっていました。
今になればその答えは出たので長い間の決着が私の中では着きました。
私の分析では「妄執、欲望、後悔でいら立つばかり」は「執着心が強すぎるから、その行動には後悔が多く自分自身に苛立つ」と聞こえますし、
「死に近づく恐怖や社会から疎んじられている悔しさ」
は自身の真摯で効果ある心身の健康維持活動をしてこなかったこと、知らないことへの怖れ、時間が経てば経つほど人間の態度というのは判り易くなるもので、
その用立てられず、邪魔もの扱いを受ける悔しさ、そしてそれに対して自身一人では行動を起こせないもどかしさ」ということができるように思います。
武芸者なら当然戦いの中での「死」を認識・覚悟しながらも修練することが意識では普通ではあると思うし、
正しき養生学を学べば何をすべきで何をしてはいけない、ということで「生」とはどういうことかをも知り理解できるはずです。
私自身の思う老のことは老師の「老」であり、若年だった時よりも今の方がはるかにすべての面で充実していることを自分のライフワークの効果を再認識して未来に自分の老後にではもっと進歩して充実しているであろうと希望を持っています。
そこにはずっと携わってきた武芸の重要さを感じますし、学校教育や社会でも武道や武術を重視しなかったこと(あるいは無感覚でその方向性に従ったこと)に多くがそれを知らずにいることと起因していることがわかります。
因果応報の言葉の意味通り、最近思うに人は究極的には、人それぞれでしかないし、それぞれの自信は自身のしてきた修練の賜物:具体的な実践の積み重ねしかないのだと思います。(なければ、当然なし)
しかし私の毎日の普及活動で思うに60~80歳代の女性はとても健全な大和撫子が多く真面目で元気な方々が多いと思います(男性で残念ながらその逆で依存体質の方が多いようです)
毎日のニュースからも判る、崩壊しつつある西洋資本主義時代の現在の日本では将来にもっと危機意識を持たなければならない世代なのは我々の年代、40~50歳代だと思います。
これからの5~10年後は結構大事な時期だと感じています。