最近は水曜日は天気が下り坂な日が多く、あるいは前日や前々日が雨の日があっていつもはこのシーズンには山歩きをするのですが今年はまだ出掛けていません。

そのために近場をサイクリングすることが多くなりました。しかし横浜は水や緑に恵まれた土地なので今の時期はどこでもゆったり新緑を感じることができます。

どこでもふと気付くのはやはり年配の皆さんが多くなったな、ということです。

自分たちの世代でもまだまだこれから先は長いのだ、と思えば10~20年前ほどのようなスピード社会というご時勢に煽られていて日本社会全体は本当はいわれのない生き方をさせられていたような気がします。

自分は武術の道ひと筋に生きてきて かつては世捨て人扱いを受けていたような感じでしたが、今はようやくフィットネス業界でも評価も得られるようになり落ち着いた感覚があります。

昨年の大震災を経て、自分は更にマイペースで自分らしい生き方をしていきたいと感じるようになりました。

ありとあらゆる武功を想うと練功・鍛錬する時間、学ぶ時間、考える時間、回復させる時間、様々な交流する時間、そして改めて自身が生涯にどのようなポジションでやっていくか、ということを想う時間。

そしてすべての総合した実践の時間も必要だと思います。

正直本音を言わせてもらえれば私の少年~青年時代の当時1980年代において日本国内での武術事情のすべてを調べつくした果てに「物足りな過ぎた」ということがあったのです。

学ばない・知らない人が多かったからこそ「学び・知るために」

やらない、できない人が多かったからこそ「できるために」やってきました。

そこへ今ではやってきたことにおいてあらゆるすべてに「満ち足りた」感覚があります。

元々、物質的なものにあまり興味はないので、いつも自身の研鑽を意識してやってきました。

そうして今考えると、日本の武道経験から始まり、そこから中国武術への追求をしてきて現在の想ったことは、

日本の武道は武士道において生きるための手段・方法、生き方、そして思想、哲学であって 

沖縄をルーツに持つ空手や、江戸時代にやってきた陳元賓の技術を元に発展されてできた柔術、柔道、合気道など ありますが

本質的に日本武士道は帯刀していたがゆえに「剣之術」重視だったと思います。

最近の私は中国武術的体質を身につけた感覚を通じて日本刀での居合いの稽古を自身でよく行っています。

その感覚で想うには最終的には世界一といっていい日本刀持ち同士での闘いが一番ギリギリな生命のやりとりの究極なところにあったのだと感じます。

しかしながら武道とは現代の様々な面においてでも、やはり修身の術であり処世の術だということは変わらないと思います。

それが人それぞれ、あるいは共にある人同士の生き方を活かしていく:活人の術か、

ただ人を傷めたり生命を脅かすことを目的と考えている:暴力の術なのか 

あるいは現代社会的ビジネスのひとつとして考えているのか。いろいろとあると思います。


今迄にいろいろな人を見て感じたことは多いです。

その人の求めているものはありとあらゆるかたちで自ずから見えてくるものだと思います。

時間との付き合い、これが一番重要なことを知りました。