最近よく寝ている夢の中で悟ることがあります。

昨夜は「乗っ取られてはならない」と自身が夢の中で言っていました。

そうなんだ、と自身で言いながらすべてに気付きました。

この国の多くの人が気付かれないようなかたちで知られずにさり気なく「乗っ取られて」いるのです。


世間に流される真しやかな「嘘」の数々。

作られていく流行。

押し付けられていく理想主義や洗脳教育や競争主義。

毎日の尊い時間を何者かに奪われる、などなど。

そして飲食物の摂取の積み重ねの果てに言うことが利かなくなる体や、

思考ができなくなる「脳」

丁寧親切に見えながらも思いやりを装って眼前に並べられていく不快な言葉や音声の数々。

助け船を出すように見えて、実はまた同じ種族たちであるテレビ番組や音楽。

そして蜘蛛が巣を張り、彼らを待ち受ける「ビジネス」


乗っ取られてしまったら「自身」が何をしているのかが自身で原因も何もわかっていられなくなる。

そこへと気付けるための手段はかなり少ない、という事実。

自身がおかしいのか、周りがおかしいのか、おかしいのが圧倒的多数というのがありえるのか、

あるいは良心的な多数があって気付けないだけではないのか、

いや、気付けないなら放っておけばよい、

言っても聞かないような彼ら自身の問題なのだ、と自身の時間も労力も無駄にはできない、

いや、そうしたら本当の日本の明るい未来へは続かないぞ・・

ならばどうするか、という葛藤:ジレンマの連続。

そこへ早くに気付いても、変人扱いされてしまう理不尽な現実。


そうか、だから私自身は武術や気功の研鑽にすべての時間をかけて何度もこの26年の間に中国との往来を繰り返し現地で学んだことをずっと繰り返し毎日毎日の自身の心身を築いていたのだと。


何人か「それ」に気付いている人は昔から武術をしている人の中でも数はしかしながら相当少ない。

やはり普通同様に「乗っ取られている」人たちが多い。

「かたち」だけのものはやはりそういうものにしかならない、ということは真実である。

こうして見渡して、かつては「気付いて欲しい」と今までに彼らへも思って働きかけてきたりはしたが、それは違うことに気付いた。

「気付かなければ」その水準なのだということだった。

またこれからも「気付かぬうち」に心身を何者かに乗っ取られて終わってしまう人も出てくるのかも知れない。

私は今まで通りに説きながら活動は自身のすべてが尽きるまでベストを尽くす。


水曜日に鎌倉の寺社を訪問した。

「諦観」そのことも悟りのひとつだと想った。