先月は映画新少林寺の公開キャンペーンのお手伝いをしました。
6月には同じ配給会社での酔拳レジェンド・オブ・カンフーでもエキシビジョンを予定しましたがタイミングが合わなかったのですが試写会へ招待して頂きました。
日本列島の全国ではとにかく大きく目立つのような数字ではないのですが、私の世代での1975~1980年カンフーブーム時代を知っている人は今現在でも古くからのコレクションを大切にしながらも今でも変わらずに映画館へ足を運んでくださっている事実を今年は知ることができました(※実は芸能人ではかなり多いです!)
カンフーファンは今でもたくさんいて下さり、その皆様にも何らかの発展のためのチャンスやきっかけになれたらいいな、とも我々はいつも考えて普及活動を頑張っています。
ここで武術活動をしている方々にお知らせしておきたいのは武術文化の「有る」か「無し」かで大きく「そのもの」は異なるということです。
よく競技を中心に活動されている方々は自分の得た得点に「何が足りないのだろうか」という、いろいろな疑問をもたれることもあると思います。
あるいは映画の中で武術は専門家ではなくとも「武術家」になっている皆さんに魅力を持たれる方々もあると思います。
逆に言うとカンフー映画などをよく見ている方々の眼はとにかく肥えていて、すぐに本物、あるいは本物的、偽物あるいは偽物的という感覚があってそれをすぐ様に見抜くことができます。
私はそれを「武術文化の「有る」か「無し」か、ということにしています。
一番解く表れやすいのは「眼法」という、所謂「目つき」です。
戦いに挑む眼や表情と、型をやるための眼や表情とはまったく異なるからです。
ですからいくらきれいに見えても、
速度を上げようとジャンプ力を強調したとしても、何か違うな、と不足を感じられてしまう理由はここにあります。
武術なる理由の技の用法の攻防技術、無駄のないからだ遣い、先ほどの眼法など多くの功夫が総括してまとまってこそ「おおこれだ!」という充足感を得られることだと思います。
私の経験で思うに日本でも武術文化を継承されている門派の先生や皆さんは各それぞれに活動は定着して大体安泰しているように感じています。
それに中国武術は伝統体育文化であり、漢字圏の文化だということを理解する必要があります。
ですから武術を行う者は文化人でなければならず、野蛮人や品位の不足している人は向かない、ということ。
あるいは中国大陸の師の多くは学びに来た人たちのそれらを性質を見抜きいくらお金を積んでも、教えるのは形だけ、ということが実は今までにたくさんありました。
ですからそうした武術文化がなく、見て欲しいということ重視のパフォーマンスのみに偏ってしまうと「体操」といわれてしまったり、長い年月をかけて確立された攻防技術と健身功法が欠けていると「武術じゃない」と言われてしまうのでしょう。
しかしながら思うに今の時代何でもありになってしまっているのですから、寛容の精神で見てあげることも大事ですし、
かつてのマスメディアの影響って怖いな、と想うのは、
月刊誌でもあった「武術」と「中国武術」の相互の建設的でない誹謗中傷合戦の影響をまだ引きずっている方々もあるのかな、とも思います。
今から思えば、あれも気に入らないメディアでの情報を我田引水をしたいゆえの相互の編集者同士によるエゴ応酬でしかなかったように感じています。
結果的には双方とも廃刊になってしまい武術氷河期を招いた要因になったことで気兼ねや気がかりを残すだけのネガティブキャンペーンでしかありませんでした。
よく見ると言いたいことはわかるのですが、
メディアを扱ううえでのバランス感覚や多くの圧倒的不特定多数への配慮が欠けていた、ということです。
私たちは今、カンフー映画からも学ぶ要素も大切にし、
そして中国武術運動での多くの伝統武術項目も対抗性武術でも競技の武術でも中国武術文化の学習や研究をも同時進行で行っている活動と実践を行っています。
まさしく古くとも新しい感覚、温故知新だと想うのです。
6月には同じ配給会社での酔拳レジェンド・オブ・カンフーでもエキシビジョンを予定しましたがタイミングが合わなかったのですが試写会へ招待して頂きました。
日本列島の全国ではとにかく大きく目立つのような数字ではないのですが、私の世代での1975~1980年カンフーブーム時代を知っている人は今現在でも古くからのコレクションを大切にしながらも今でも変わらずに映画館へ足を運んでくださっている事実を今年は知ることができました(※実は芸能人ではかなり多いです!)
カンフーファンは今でもたくさんいて下さり、その皆様にも何らかの発展のためのチャンスやきっかけになれたらいいな、とも我々はいつも考えて普及活動を頑張っています。
ここで武術活動をしている方々にお知らせしておきたいのは武術文化の「有る」か「無し」かで大きく「そのもの」は異なるということです。
よく競技を中心に活動されている方々は自分の得た得点に「何が足りないのだろうか」という、いろいろな疑問をもたれることもあると思います。
あるいは映画の中で武術は専門家ではなくとも「武術家」になっている皆さんに魅力を持たれる方々もあると思います。
逆に言うとカンフー映画などをよく見ている方々の眼はとにかく肥えていて、すぐに本物、あるいは本物的、偽物あるいは偽物的という感覚があってそれをすぐ様に見抜くことができます。
私はそれを「武術文化の「有る」か「無し」か、ということにしています。
一番解く表れやすいのは「眼法」という、所謂「目つき」です。
戦いに挑む眼や表情と、型をやるための眼や表情とはまったく異なるからです。
ですからいくらきれいに見えても、
速度を上げようとジャンプ力を強調したとしても、何か違うな、と不足を感じられてしまう理由はここにあります。
武術なる理由の技の用法の攻防技術、無駄のないからだ遣い、先ほどの眼法など多くの功夫が総括してまとまってこそ「おおこれだ!」という充足感を得られることだと思います。
私の経験で思うに日本でも武術文化を継承されている門派の先生や皆さんは各それぞれに活動は定着して大体安泰しているように感じています。
それに中国武術は伝統体育文化であり、漢字圏の文化だということを理解する必要があります。
ですから武術を行う者は文化人でなければならず、野蛮人や品位の不足している人は向かない、ということ。
あるいは中国大陸の師の多くは学びに来た人たちのそれらを性質を見抜きいくらお金を積んでも、教えるのは形だけ、ということが実は今までにたくさんありました。
ですからそうした武術文化がなく、見て欲しいということ重視のパフォーマンスのみに偏ってしまうと「体操」といわれてしまったり、長い年月をかけて確立された攻防技術と健身功法が欠けていると「武術じゃない」と言われてしまうのでしょう。
しかしながら思うに今の時代何でもありになってしまっているのですから、寛容の精神で見てあげることも大事ですし、
かつてのマスメディアの影響って怖いな、と想うのは、
月刊誌でもあった「武術」と「中国武術」の相互の建設的でない誹謗中傷合戦の影響をまだ引きずっている方々もあるのかな、とも思います。
今から思えば、あれも気に入らないメディアでの情報を我田引水をしたいゆえの相互の編集者同士によるエゴ応酬でしかなかったように感じています。
結果的には双方とも廃刊になってしまい武術氷河期を招いた要因になったことで気兼ねや気がかりを残すだけのネガティブキャンペーンでしかありませんでした。
よく見ると言いたいことはわかるのですが、
メディアを扱ううえでのバランス感覚や多くの圧倒的不特定多数への配慮が欠けていた、ということです。
私たちは今、カンフー映画からも学ぶ要素も大切にし、
そして中国武術運動での多くの伝統武術項目も対抗性武術でも競技の武術でも中国武術文化の学習や研究をも同時進行で行っている活動と実践を行っています。
まさしく古くとも新しい感覚、温故知新だと想うのです。