先程、上野国立博物館での「孫文と梅屋庄吉 特別展」を拝観してから、たくさん想うことがありました。

印象的だったのは、「積善家:せきぜんのいえ」「同仁:どうじん」と書かれた額と、「賢母」と孫文が書いて愛した羽織でした。

中でも、「積善家:せきぜんのいえ」

つまりは「善」を「積めば」「家」は必ず生涯にうまくいく。

という書でした。

「積善」つまりは「徳」ということです・・

先程、我が師の徐文忠老師について思い出し綴ってみたら、たくさん思い出が出てきました。

これは師との会話で学んだことです。

1987年の夏の暑い日に代々木にあるオリンピックセンターで講習会と合宿をしていた時のことです。

楊老師から連日猛特訓を受けていて、当時はあまりクーラーの利いている場所はあまりなく暑さで参っていた時です。

徐老師の部屋に来ていて、あまりにも疲れていて ついウトウトと居眠りをしてしまいました。

少しして目覚めると、徐老師が笑っていて、

老師「成澤!!」

自分「是:ハイ!」

「現在、你写 de!! 今すぐ、お前、de という字を書いてみろ!」

といわれました。

自分「de!?」

老師「対:そうだ」

自分「徳」という字を書く。


老師:ちょっと笑っている・・

老師「対:そうだ」

自分「・・・」


老師「可以。如果、你写’得’的時候、就回去!」

(まぁいいだろう。もしお前が得って書いていたら すぐに帰れ!というつもりだった)

※「de」は中国語の発音です、日本語なら「とく」つまりは徳と得の2文字しかないのです、いきなり意外なところで試されていたのですね・・

(この後は日本語で書きます)

老師:いいか「徳」を持つ人が後に「得」を持つことはたくさんある。しかし「得」ばっかり求める人間には「徳」を持つことは一切ない、覚えとけ!!

「はい!」

今でも師の教えは守っています。

(※本音:しかしたまには、得があってもいいんじゃないかな~と思ったことは普通の人間としてはよくあります・・でも修行だな・・)


「積善家:せきぜんのいえ」

真実だと思います。


実は、今だから言えることなのけれど、

以前はある組織で北京との系列と連携をして東京で活動している人たちと「合作」をして活動をしていた時期があります。

そこでは幹部候補生として優遇もされていた時がありました。

しかし付き合えばこの関連組織の人たちは言っていることなど、

表向きから見れば確かにきれいなのですが、


裏で本音を語らせれば、それぞれに人を利用するだけ利用して利己に都合よく使い倒して、

そこから自分の得るお金の取り分のこととか、あるいは自分の地位や名声の維持そして向上のことしか頭にない人たちばかりの集団でした。

ある中国北京から来た人にこう言われました。

「話がある・・」

「はい」

「最近、あなたには協力姿勢が足りない」

「そうですか!?」

そして「あなたに、武徳ってわかりますか?」と聞かれました。

私は少しこの人にカチンと来て、

「先に徳と切り出してそちらがいえば、私はただのイエスマンになれという意味ですか?」と言いました。

「あなたには意味がわかっていない」

「わかっているから言ったのです」

「そう」

「あなたには話があったとしても、その話は私には聞こえない。失礼します」

思えば、

それから10年以上が経ちました・・


今でも正しい選択だったと思います。

「積善家:せきぜんのいえ」

確かに、今でもちょっとずつですが自分なりに積みながら(時には崩しながら!?)がんばっております・・