ここ1週間ほど、パスポートの自分の本籍の欄を見てから
ふと、まだ見ぬ自分のルーツの地への想いが強くなりました。
「望郷の想い」です。
人間は何処からやってきて、何処へ行こうとするのか。
自分は何処からやって来て、何処へ行こうというのか。
ふと自分の人生を振り返り、今までにやってきたことは自身の本意に従ってきて良かったと思います。
時にそれは肯定され、またある時には否定されてきました。
どちらかといえば否定されてきたことの方が多かったように思います。
世の中は、何か大きな力の影響もあってか「予め、決められたことにただ従わされる」ことが
多くあるとずっと中学生ぐらいの頃から感じていました。
そのために己の意志を磨き、身心を常に強くありたい、ということで
父にいわれて行っていた剣道を辞めて、武術を始め、ずっとこんにちまで続けてきました。
しかし既存の日本での武術の団体にもやっぱり「予め、決められたことに従わされる」ことがあり、
それらからも離れ、
純粋な日本人の感覚やライフワークとしてを大事にして
本場中国の活動スタイルを受け継いで行えるように工夫しながら独自の路線をスタートしました。
今年はその設立から10周年です。
また新たな想いをスタートしたい、ということもあり、
私が26年前に初めに訪れた中国の地 上海に明後日から行ってきます。
海外に多く出ていつも感じるのは、日本人は素直で真面目です。
しかし時に「時代の嘘」によく載せられては騙されたりすることに気をつけなければならない、と感じています。
ここ5~6年を振り返れば、
捏造ダイエット番組、耐震偽装、虚偽の風説の流布、大相撲の八百長、芸能界の腐敗、
そしてこの震災における情報隠蔽の数々。
不自然で「おかしいな」という直感が働くと「考えすぎ」とか「大丈夫!?」なんていわれてきました。
しかし実はこれらはすべてこれらは共通して繋がっていることにも気付かない、あるいはすぐに忘れてしまう人々が多いことにも気付いて欲しいです。
現代人は朝から晩まで疲れさせられてしまっているから、
とにかく空いた時間は
「真剣に物事を考える」のではなく「気晴らしのために考えない」方に意識が優先させられてきたからだと思います。
それも仕方がないですね、それも現実。
だけれども、時代が右へ向けといえば右へ向き、左といえば左を向く。
持ち上げては叩き落とす、何でもこの繰り返しばかりです。
落ち着いて理不尽なことに繋がることはしないという「無為自然」の境地は本当に大事だと思います。
ここ数日、私のルーツにまつわる記事がITのうえでいくつか出てきました。
そこには父や父方の祖母や伯母が言っていた通りのことが書いてありました。
正直、私にしかわからないことですが、とにかくもの凄く嬉しかったです。
私は東京生まれ東京育ち、小田急線の狛江という小さな町で生まれ20年を過ごし、
予備校生と大学生の時に板橋区で一度生活して、
仕事では全日本太極拳協会時代の千駄ヶ谷、新宿の京王プラザホテル時代が長く、次に千代田区紀尾井町で働きました。
今から思えば「東京のすべて」を知り尽くしたいがためにやっていたことのように思います。
現在は横浜に落ち着いて生涯この地で生きていくつもりです。
私のルーツは13世紀までは山形県蔵王の地で、長野へ移り、
そして15世紀頃に深谷にて祖先が成澤城を築き、後に上杉家の家臣としての武家大名としては失脚をしました。
その後、私の父が50年ほど前に東京へ出てきました。母は愛知県の人でした。
もし私の父や先代が山形にいたままだったのなら今の私はないと思います。
(しかしまだ見ぬ、自分の生命のルーツの地を近いうちに訪れたいと考えています)
そして何となく感じる自分の遺伝子の記憶には安徽省亳州市に関連している気がしました。
それは2009年に阜陽から老子の故郷の渦陽へ通りかかった既視感:デジャヴューがそう感じさせてくれたのです。
亳州市には伝統の五禽戯の伝承と普及活動をしている華侘五禽戯倶楽部があり、 それは曹氏公園で行っています。
そしてその公園の奥に曹操一族の墓所があり、
現地での考古学研究の資料には2世紀に倭人が魏の国にやってきた、という記述があります。
時々想像するのに私の祖先はひょっとして1800年前に亳州にやってきた倭人の末裔の一人なのだろうか、
そして魏から学んだ何かを日本に持ち帰り、中国で学んだものを広めていたのでは・・
そんなことを想い、今現在行っている活動の自分のルーツを想うのにも浪漫を感じるのです。
望郷の想いは、また新たな自分を強くしてくれる自分の歴史やルーツから受け取るエールになっているように感じます。
今は横浜の地に落ち着きました。
先代が仕えた深谷上杉家は北条氏に、そして後の戦国時代に武田家に降り、この武蔵の地は武田領の一帯となっていたそうです。
諏訪神社が多くあるのも富士を望み甲斐武田を想うことから建てられたそうです。
縁あるこの地で初めて私の普及活動が根付きました。これからも大いに頑張っていきます。
ふと、まだ見ぬ自分のルーツの地への想いが強くなりました。
「望郷の想い」です。
人間は何処からやってきて、何処へ行こうとするのか。
自分は何処からやって来て、何処へ行こうというのか。
ふと自分の人生を振り返り、今までにやってきたことは自身の本意に従ってきて良かったと思います。
時にそれは肯定され、またある時には否定されてきました。
どちらかといえば否定されてきたことの方が多かったように思います。
世の中は、何か大きな力の影響もあってか「予め、決められたことにただ従わされる」ことが
多くあるとずっと中学生ぐらいの頃から感じていました。
そのために己の意志を磨き、身心を常に強くありたい、ということで
父にいわれて行っていた剣道を辞めて、武術を始め、ずっとこんにちまで続けてきました。
しかし既存の日本での武術の団体にもやっぱり「予め、決められたことに従わされる」ことがあり、
それらからも離れ、
純粋な日本人の感覚やライフワークとしてを大事にして
本場中国の活動スタイルを受け継いで行えるように工夫しながら独自の路線をスタートしました。
今年はその設立から10周年です。
また新たな想いをスタートしたい、ということもあり、
私が26年前に初めに訪れた中国の地 上海に明後日から行ってきます。
海外に多く出ていつも感じるのは、日本人は素直で真面目です。
しかし時に「時代の嘘」によく載せられては騙されたりすることに気をつけなければならない、と感じています。
ここ5~6年を振り返れば、
捏造ダイエット番組、耐震偽装、虚偽の風説の流布、大相撲の八百長、芸能界の腐敗、
そしてこの震災における情報隠蔽の数々。
不自然で「おかしいな」という直感が働くと「考えすぎ」とか「大丈夫!?」なんていわれてきました。
しかし実はこれらはすべてこれらは共通して繋がっていることにも気付かない、あるいはすぐに忘れてしまう人々が多いことにも気付いて欲しいです。
現代人は朝から晩まで疲れさせられてしまっているから、
とにかく空いた時間は
「真剣に物事を考える」のではなく「気晴らしのために考えない」方に意識が優先させられてきたからだと思います。
それも仕方がないですね、それも現実。
だけれども、時代が右へ向けといえば右へ向き、左といえば左を向く。
持ち上げては叩き落とす、何でもこの繰り返しばかりです。
落ち着いて理不尽なことに繋がることはしないという「無為自然」の境地は本当に大事だと思います。
ここ数日、私のルーツにまつわる記事がITのうえでいくつか出てきました。
そこには父や父方の祖母や伯母が言っていた通りのことが書いてありました。
正直、私にしかわからないことですが、とにかくもの凄く嬉しかったです。
私は東京生まれ東京育ち、小田急線の狛江という小さな町で生まれ20年を過ごし、
予備校生と大学生の時に板橋区で一度生活して、
仕事では全日本太極拳協会時代の千駄ヶ谷、新宿の京王プラザホテル時代が長く、次に千代田区紀尾井町で働きました。
今から思えば「東京のすべて」を知り尽くしたいがためにやっていたことのように思います。
現在は横浜に落ち着いて生涯この地で生きていくつもりです。
私のルーツは13世紀までは山形県蔵王の地で、長野へ移り、
そして15世紀頃に深谷にて祖先が成澤城を築き、後に上杉家の家臣としての武家大名としては失脚をしました。
その後、私の父が50年ほど前に東京へ出てきました。母は愛知県の人でした。
もし私の父や先代が山形にいたままだったのなら今の私はないと思います。
(しかしまだ見ぬ、自分の生命のルーツの地を近いうちに訪れたいと考えています)
そして何となく感じる自分の遺伝子の記憶には安徽省亳州市に関連している気がしました。
それは2009年に阜陽から老子の故郷の渦陽へ通りかかった既視感:デジャヴューがそう感じさせてくれたのです。
亳州市には伝統の五禽戯の伝承と普及活動をしている華侘五禽戯倶楽部があり、 それは曹氏公園で行っています。
そしてその公園の奥に曹操一族の墓所があり、
現地での考古学研究の資料には2世紀に倭人が魏の国にやってきた、という記述があります。
時々想像するのに私の祖先はひょっとして1800年前に亳州にやってきた倭人の末裔の一人なのだろうか、
そして魏から学んだ何かを日本に持ち帰り、中国で学んだものを広めていたのでは・・
そんなことを想い、今現在行っている活動の自分のルーツを想うのにも浪漫を感じるのです。
望郷の想いは、また新たな自分を強くしてくれる自分の歴史やルーツから受け取るエールになっているように感じます。
今は横浜の地に落ち着きました。
先代が仕えた深谷上杉家は北条氏に、そして後の戦国時代に武田家に降り、この武蔵の地は武田領の一帯となっていたそうです。
諏訪神社が多くあるのも富士を望み甲斐武田を想うことから建てられたそうです。
縁あるこの地で初めて私の普及活動が根付きました。これからも大いに頑張っていきます。